私が何時も苦しくなると・・・心の中で唱える言葉が有ります。
”今”・・・今しかない!前後裁断!
そして・・・物事”中庸”を持って旨とすべし
何度も何度も唱えても・・・直ぐには私の感情(こころ)を救ってはくれません。残念ながら現実ですが、それでも、それでも唱え続けます。
そうすると・・・時々”から元気”が出てくる場合が有ります。
私は常々社員の皆様に何時も何時も昔から申しあげている事が有ります。
”人間は思ったとおりの人になれる”・・・必ずなれるだから思え!!!社員の皆さんからは反論も有りますが嫌がられても何時も何時も申しあげて来ました、そして今も申しあげています。
”自分がなりたい自分を思え!!!”
しかし、今回なりたい自分が突如霧散してしまう事も有る事を知りました。アクシデントなど無くても、なりたい自分を見つけられない、思うことすら出来ない事が有る事を知りました。
人間と云う生き物は昔から言い伝えられては居ますが・・・そう・・・”感情の動物”・・・なんですね!初めて骨の髄までこの言葉の意味が理解出来ました。
”感情”・・・慶び、喜び、歓喜、怒り、悲しみ、苦しみ、その他感情を表現する言葉としては・・・
「胸が痛む」、「断腸の思い」、「血湧き肉躍る」、「手に汗握る」、「胸をおどらせる」、「腹が立つ」、「はらわたが煮えくり返る」、「頭に血が上る」、「むかつく」、「苦々しい」、「鉛を呑んだような」
この感情は弊社住育セミナーでも学びますが・・・第一義的には子供が成長する過程で個々の家庭環境、親子関係、家族関係で大脳皮質、皮質下、等に有る共感脳と云われる所が育つ過程で個々に身につけます。特に母親との言外コミニュケーションの影響はとても大きいモノが有ります。
しかし、感情の起伏の無い人間など世界中探しても一人たりとも居ません。(病的、事故的な人を除く)
相手を本当に心底理解するとは・・・この個々の身につけた”感情”の差まで理解する事無しには不可能です。この感情の差を理解する過程で必ず個々の感情の差が原因の小さな衝突や場合に依っては大きな衝突を繰り返し・・・初めて相手を本当に理解出来ると思うのです。例えばどんな動物でも群れの中で必ず争い、そして序列を決めていきます。平たく言えばとっくみあいのケンカをしないと相手の本当の強さは解らないと云うことです。
ましてや男と女と云う全く別の生き物の、そして個別の親御さんであり別々の環境で育ち上がった別々の個体の感情に差が無く同じなんて事などあり得ません。
私は・・・恵まれた環境で育つことが出来ませんでした、とてもハードな感情の起伏の環境で育ちましたので、他者から見るととっても”怒りんぼ”の様です。とっても”泣き虫”の様です。私の廻りには世間一般的に云う”被害者”続出”で申し訳なく思っています。申し訳なく思えるようになったのもお恥ずかしながら40才を過ぎた当たりからですけれども・・・それでも・・・直りませんし、未だに廻りに迷惑をかけ続けてしまいます。
子育ての本に”子供を感情的に叱ってはいけない”・・・と有ります。声を荒立てず、諭すように優しく注意をする事が重要。・・・なるほどですね!
しかし、子供は子供です、普通の子共は賢者でも学者でも有りません。嫌な事は・・・”お耳日曜日”・・・とばかりにスルーする能力を本能的に身につけて居ます。心のゲートウエイが閉ざされた状態で何をどう優しく解りやすく言っても・・・それは親の自己満足以外の何者でも有りません。
”感情”の爆発は・・・良い悪い、被害の有る無しを別にして・・・心の叫びの真実です。その人そのものの実像がクッキリと現れています。
本日の某新聞にも下記の様な内容の記事が有りました。
「優しいと言われたい、思われたい母親は感情的に怒ると親子関係が悪くなると心配して、子供に嫌われる事を恐れて叱れない親も居るが、真に子を思う親であれば、我が子の心の扉をこじ開ける為に感情的に叱っても親子関係は上手くいく。そして人として大切な事をないがしろにした場合には毅然とした態度で叱る事が大切であり、感情を込めるからこそ事(失敗・過ち)の重要性が伝わり、子を思う親の気持ちが通じる。」
世の中には一度も親に怒られた事のない子供が居るそうです。
世の中には一度も夫婦喧嘩をした事が無い夫婦が居るそうです。
”怒りんぼ”で”泣き虫”の欠点だらけの私が言うのも申し訳ない気がしますが・・・
実にもったいない、実に、実に・・・もったいない!!!
仏教の禅宗、曹洞宗の修証義(しゅしょうぎ)第五章(行持報恩)の一部にもこう有ります。
徒(いたず)らに百歳生けらんは恨むべき日月(じつげつ)なり、
悲むべき形骸(けいがい)なり、
設(たと)い百歳の日月は声色(しょうしき)の奴婢(ぬび)と馳走すとも、
其(その)中一日の行持を行取(ぎょうしゅ)せば一生の百歳を行取するのみに非ず、
百歳の佗生(たしょう)をも度取すべきなり、
此(この)一日の身命は尊ぶべき身命なり、
尊ぶべき形骸なり
(意味)
かくて意味もなく百年の年月を生きても、それは只はかなき生のいとなみのみというべく、無駄な年月であり
つまらぬ形骸(むくろ)というべきである。
されど、そのように物の世界の中を走りまわったような百歳であっても、
その中で一日でも、真実の道理に従った生活ができたならば、その一日の行持の功徳は、あまねく一生の全体を蓋うだけでなく、
更に又そのようなすばらしい百年のいのちをもう一度過ごしたのと同じ徳があることになる。
この一日のいのちは尊ぶべきいのちであり、
尊ぶべき身体である
まさしくこのお経の様に生ききった不器用な親子を私は知って居ます。