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東京大学は極悪人養成所なのかも知れないね?

「需要に応じた生産」という名の、安心感という幻想

――おこめ券と減反強化――が映す、日本人の“悪慣れ⇒悪人と同質の悪党化”という病

コメが高い。それも「ちょっと高い」ではなく、「え、主食ですよね?」と二度見するほど高い。にもかかわらず、私たちの耳に届くのは「おこめ券配布」や「需要に応じた生産」という、どこか牧歌的で、耳当たりのよい言葉ばかりだ。まるで値札の代わりに子守唄を貼り付けられているような気分になる。

鈴木農林水産大臣は、「需要に応じた生産は減反ではない」と繰り返す。需要が増えれば生産を増やすのだから問題ない、と。しかし、この説明を聞いて「なるほど」と頷ける人がどれほどいるだろうか。少なくとも、経済学の入門書を一度でも開いたことがある人なら、首をかしげるはずだ。

農業、とりわけコメ生産は、経済学でいう「完全競争」に極めて近い世界だ。生産者は多く、一人ひとりの生産量は市場全体から見れば誤差のようなものだ。秋田の大規模農家が頑張って増産しても、全国700万トンの市場価格にはほとんど影響しない。農家が見ているのは「需要」ではなく、すでに市場で決まった「価格」だけである。これは理屈ではなく、教科書の最初の数十ページに書いてある話だ。

それでも「需要に応じた生産」を法制化しようとする。その実態は何かと言えば、結局のところ「価格を下げないために生産量を抑える」減反そのものである。名前を変え、言葉を柔らかくし、責任の所在をぼかしただけだ。減反は減反であり、緩和はあっても消滅したことは一度もない。

では、なぜそこまでして減反を守るのか。理由は単純だ。米価が下がるのが怖いからである。JA農協も、農水省も、「自由に作らせたら価格が暴落する」と言い続けてきた。つまり、市場が決める価格は“低すぎる”と、彼ら自身が認めているのだ。だから補助金で生産を抑え、価格を人為的に吊り上げる。

零細農家の数の温存政策、零細農家も補助金もらって少量生産で米価格を高く維持してくれる訳だから、年間たった30日働くダケで米栽培が可能で競争力を持つ(売れる)事になる。

その結果どうなったか。コメはパンや麺類より高くなり、消費は年々減った。消費が減るから、さらに減反を強化する。すると供給が細り、ちょっとした猛暑や天候不順で一気に不足が起きる。そして米流通の5重の層の誰かが儲けてやろうと意図的に供給調整をした場合、米価格は高騰する。これが「令和のコメ騒動」の正体だ。天災の顔をした、れっきとした人災である。

もし減反をやめ、1000万トン生産し、余剰分を輸出していればどうだったか。1993年の冷夏でも、最近の猛暑でも、国内が空になることはなかった。EUは実際にそうしてきた。余れば輸出し、不足すれば輸出を減らす。それだけの話だ。しかし日本では、「余ること」そのものが悪とされてきた。

「余ること」=「米価格が下がること」=「零細農家の廃業」=「自民党の票田数の減ること」=「JA等のビジネスの縮小」=「農業村の衰退」=「天下り先の減少」

この背景には、日本社会特有の”村社会の維持”が第一「制度で安心したい」心理があるように思える。不確実な市場より、多少非合理でも官僚が描いた数字の方が安心できる。多少高くても、「守られている」という感覚があれば受け入れてしまう。気づけば、問題は先送りされ、矛盾は積み重なり、それでも「まあ、今までやってきたし」という悪慣れが社会を覆う。

農水省の幹部に法学部出身者が多く、経済学的な訓練が乏しいことも象徴的だ。制度は整えるが、価格やインセンティブの歪みには鈍感になる。その結果、「需要に応じた生産」という、聞こえは立派だが中身は空洞な言葉が、法律に書き込まれようとしている。

鈴木大臣は「もう二度とコメが店頭から消えることはない」と断言した。しかし、来年の天候を正確に予測できる人間はいない。地球沸騰化時代には自然は過酷になる可能性が高い事など常識中の常識である。インバウンドの変動も、国際情勢も、誰にも読めない。それでも「必ずやる」と言い切れるとしたら、それは政治家の自信ではなく、神の領域だ。

怖いのは、こうした話を聞いても、多くの日本人が「難しい話だな」で終わらせてしまうことだ。値上がりには文句を言うが、原因には目を向けない。間違いを認めない政策にも、「仕方ない」と慣れてしまう。その積み重ねが、気づかぬうちに日本社会の耐久力を削っていく。

おこめ券は、優しさの仮面をかぶった鎮痛剤だ。痛みを一時的に和らげても、病気は治らない。むしろ、「これで何とかなる」という安心感が、治療を遅らせる。

過去の間違いを認めず、経済学を無視し、問題先送りを常態化させる社会は、静かに、しかし確実に危険な場所へ近づいていく。主食であるコメの話は、その縮図にすぎない。

私たちはそろそろ、「守られている」という幻想から目を覚まさなければならない。さもなければ、日本はこれからも、安心そうな顔で、同じ穴に何度も落ち続けることになるだろう。

今度落ちる穴は、84年前と同じような地獄の穴、そう簡単に穴から復活出来ない可能性が高いと心配になる。私は84年前に起きた都会は勿論の事、田舎の町でもパンパンだらけなんて光景は見たくない。ふぅ〜