事実を無垢な目で、蟻とミサゴの視点で見て、正しく判断したいですね!
円安が進むと、名目GDPや企業収益は数字の上では「それなりに成長している」ように見える。株価は上がり、輸出企業の決算も悪くない。だが、その数字を一枚めくると、そこにはまったく別の景色が広がっている。実質賃金は下がり続け、生活必需品の価格は上がり、家計は確実に痩せ細っている。日本経済は浮かんでいるのではなく、ゆっくり沈んでいる。問題は、その現実を最もよく知っているはずの人々が、なぜか目をそらし続けていることだ。
浜田宏一氏は、アベノミクスの「生みの親」として、大失敗が明確になっても金融政策の正当性を語り続けて来た。しかし、その議論には致命的な欠落がある。それは、ジャブジャブのマネーと超低金利が、日本の経済構造そのものをどう歪めたかという視点が、ほとんど存在しないことだ。そして今の今、その大失敗が日本を破壊しそうになりつつ有り、言説を真逆にした!・・大失敗は全てのデーターが証明している事に逆らう事は学者として出来ないのであろう。
アホノミクスの異次元緩和によって市場に大量の資金が供給され、金利は事実上ゼロに固定された。その結果、本来なら退場すべき生産性の低い企業、競争力を失った企業が、倒れないまま生き残ることになった。いわゆる「ゾンビ企業」である。低金利という点滴を打ち続けられ、利益を生まなくても生存できる企業が増えれば、どうなるか。新陳代謝は止まり、成長分野に資本も人材も流れない。構造改革どころか、改革が起きない構造そのものが固定化されてしまう。
浜田氏は、雇用が約500万人増えたことを成功の証として挙げる。しかし、その内実を冷静に見れば、非正規雇用や低賃金労働の拡大が大きな比重を占めている。数は増えたが、質は改善していない。これは「雇用創出」というより、低付加価値経済への沈み込みに近い。
構造改革による生産性の向上と云う一番大事な事をやらなかった故に、500万人が増えたに見えるダケである。本来は100人でやる仕事を50人でやり、残りの50人を再教育して成長分野に移動させなければならなかったのに・・・100人でやる仕事を正社員70人と非正規社員50人、合計120人でする様にした事で雇用が増えたダケである。
さらに深刻なのは、円安がもたらした「錯覚の成長」だ。円安によって輸出額や企業利益は円建てで膨らむ。円安と物価高で日本のGDPはパンの膨らし粉の様に増えたに見えるダケで、実質は減って居るのです。「錯覚の成長」は、国の実力が伸びたからではない。通貨の価値が下がっただけだ。ドルやユーロで見れば、日本経済の規模はほぼ横ばい、あるいは縮小している。名目で誤魔化し、実質を語らない議論ほど危険なものはない。
にもかかわらず、浜田氏の言説には、「なぜ日本の生産性が上がらなかったのか」「なぜイノベーションが起きなかったのか」という問いがほとんど出てこない。金融緩和はあくまで時間を買う政策であり、その間に構造改革を進めなければ意味がない。ところが実際には、緩和が続くことで痛みが先送りされ、改革の必要性そのものが忘れ去られた。
言い換えれば、アベノミクスは「改革を進めるための猶予」ではなく、改革をしなくても済む言い訳として機能してしまった。その現実を直視せず、「当時は正しかった」「状況が変わった」とだけ語るのは、あまりに無責任だ。
経済政策は、結果で評価されるべきだ。日本はこの10年余りで、デジタル化でも、スタートアップでも、賃金でも、主要先進国から大きく後れを取った。円安で観光客が増え、「安い国」として消費される姿が、日本の成長の象徴であってよいはずがない。
本当に愚かなのは、過去の成功体験にしがみつき、その副作用を「見なかったこと」にする態度だろう。ゾンビ企業が延命し、若者が挑戦できず、家計が疲弊する社会を生んだ責任から、理論家だけが免罪される理由はない。
経済学は現実のためにある。現実を無視した理論は、ただの自己正当化に過ぎない。そのことを、私たちはそろそろはっきりと言葉にする時期に来ている。
人は反省した分だけしか成長はしない、人の集合体である国家も同様である。日本の間違った教育は無謬性を生み出し高学歴者程反省とは無縁の世界を生きてしまう。恐ろしい教育が日本では行われている。
何故か?日本は間違いを認めると、負け犬扱いとなり、溺れた犬を上から棒で叩きまくる恐ろしい文化が厳然として存在しているから・・日本人は反省(負けを認める事)を恐ろしく嫌う!故に成長をしないです。
事実を無垢な目で、蟻とミサゴの視点で見て・・正しく判断したいモノですね!