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延々と同じ失敗を繰り返す「不毛地帯」の国

ネットフリックスの山崎豊子原作のドラマ「不毛地帯」が日本人の本質を色濃く描写していて面白い!

行き過ぎた「(偽物)善意国家」のゆくえ・・政治屋の偽善行為を望む質の悪い民族

――悪に慣れ、無駄に慣れ、先送りに慣れた国のすれ違い経済学

日本という国は、長年「善意の国」だと信じられてきました。弱い人を守る。困った人を助ける。もちろん素晴らしい価値観です。しかし問題は、助け方がだんだん“昭和の感情論”だけで運用され、合理の部分や持続性や、根本問題解決がごっそり抜け落ちてしまったことです。気が付けば、政策の多くが見た目ダケが“やさしすぎて、逆に時間と経過と共にさらに弱者を追い詰める”という悪循環を生みつつあります。

これは仕掛ける側の代々の稼業としての政治屋が生み出した、ポピュリズムによる有権者の囲い込み戦略から生まれています。事の善悪では無く、事の真の価値では無く、”オラが町の先生様!”情動で絡めとる信者獲得法です。だから、一端信じた先生様は裏金作ろうが、女を作ろうが、企業と癒着して収賄罪に問われようが・・また、何事も無いかの様に先生様に復活出来るのです。

経済学の世界では昔から、「善意だけでは経済は回らない」と冷厳に言われます。Q1論文をいくつか眺めれば、最低賃金ショックの実証分析、家賃規制の長期的供給低下、過剰補助金による労働参加の減退など、国際的には常識のデータが山ほどあります。

ところが日本では、「可哀想だから助けよ」「困っているのに放置は非情だ」と感情が先に立ち、その結果がどうなるかという“思考の宿題”は、毎年のように来年以降へ丸投げされるのです。

確かに大災害やリーマンショック等の経済危機には、被害者を援助する事は国家の役目ですが、これも短期的に行う必要が不可欠です。劇変緩和のみが正しい選択であり行動なのです。

「可哀想だから助けよ」「困っているのに放置は非情だ」を延々とやり続けたり、毎度毎度やる事は、1つの良い事が全体では悪になる合成の誤謬を生み出す「合成の誤謬」となり助けたハズの困って居る人はもっと深刻に困る事になるのです。

注:「合成の誤謬」とは、何かの問題解決にあたり一人一人が正しいとされる行動をしても、全員が同じ行動をとると、想定とは逆に思わぬ悪い結果を招いてしまうことを指す経済用語である。

まるで日本という国全体が、夏休みの宿題を八月三十一日に回す小学生のまま成長してしまったかのようです。

■「イモの値段を下げよ!」の優しい暴走

昔話に出てきそうな優しい王様が「庶民のためにイモを安くせよ」と命じれば、最初は「優しい王様だ」と拍手が起きます。しかしQ1研究が示す通り、価格規制は供給の減退をまねくのが常。農家は市場に出す気を失い、イモは豚の餌へ。庶民の手には、以前より少ない量しか届かなくなります。

 それでも王様は胸を張るでしょう。「わしは庶民の味方だ」と。

逆に今年の米騒動でも全く同じ事が起きます。そして右翼おばさん政権に変わり真逆の、農協村保護政策で米の値段を上げれば・・・貧しい国民はより単価の安い輸入米や、単価の安い小麦製品(米の半額)のパンやうどんやパスタに移行して、米の需用がドンドン減り続けて・・守ったハズの農家の大衰退を招くと云う事になります。

 …どこかで見た光景ですね。ええ、日本です。ガソリン補助金も家賃抑制策も似た構図。価格は下がったように見えても、財政は疲弊し、供給者は減り、最後に一番苦しむのは“本当の弱者”です。

■弱者保護のはずが、弱者から生活手段を奪う

最低賃金も同じです。「上げろ!」「生活が苦しい!」という声はもっともです。ですが、実証研究では最低賃金引き上げが雇用に与える影響は「地域」「産業」「景気局面」で大きく異なることが示されます。本来なら、冷静にデータを積み上げた上で、緩やかな調整を行うべきです。

しかし日本では議論の前に「弱者なんだから助けるのが筋」という倫理が先に来る⇒俺の選挙民の離反を防ぐ事が主眼。結果として中小企業が耐えられずに雇用を削り、守るための政策が、守るべき相手を路頭に迷わせるという逆転現象が起きるのです。

それでも国は、「景気は緩やかに回復している」というおなじみのテンプレートで乗り切ろうとします。国民も聞き飽きて、“悪慣れ”してしまっている。恐ろしいのは、この「慣れ」こそが国を蝕む最大の病である点です。

■日本はいつから「先送りの天才」になったのか

失業手当を厚くしすぎれば労働参加率が落ち、医療の自己負担を下げすぎれば医療費は天井なしに膨れ上がる。国際論文では何度も検証されています。にもかかわらず、日本では議論が始まる前に、

 「でも弱者がかわいそう」
 「でも票が減る」
 「でも既得権が怒る」

この“でも”で全部止まり、解決策は未来の誰かに回される。財政赤字は雪だるま式に膨らみ、人口は減り、労働生産性は低迷し続ける。だけど国全体がそれに慣れ、“悪を悪と認識できない国民性”まで育ってしまった。

これを、ある研究者は「制度的惰性(institutional inertia)」と呼びました。日本の場合、惰性が国家運営のデフォルト設定です。

■“悪に慣れた国”は、坂を下るスピードを自覚しない

本当に恐ろしいのは、問題が深刻だからではありません。深刻なのに“深刻さを感じる力”が弱っていることです。

イモの価格規制も、最低賃金も、家賃規制も、医療費も、弱者保護の道具であるべき政策が、気づけば未来の弱者を量産してしまう。これに慣れきった国民は、次の選挙でも同じ、目の前ダケの「やさしすぎる約束」を選び、また財政の穴を広げ自分自身の首をドンドン絞めて貧しくなる。穴が深くなりすぎて落ちても、驚く声すら弱くなっていく。

まるで、ゆっくり沈む船の上で「まだ甲板は乾いている。慌てる必要はない」と言い続ける船員たちのようです。

■では、どうすればいいのか

答えはシンプルです。「温かい心」と同時に「冷たい(合理的)頭脳」を取り戻すこと。山岳遭難したらトリアージは不可欠です。大規模災害での大量の怪我人にも当然のごとくトリアージがされます。

弱者を助けるためにこそ、制度は合理で持続性が無なければならない。財政は持続可能でなければならない。国民は“慣れ”の危険性にもっと敏感でなければならない。

私たちが「善意の国」であり続けたいのなら、“優しさの暴走”が弱者を傷つける現実に、一度きちんと向き合うこと。それが、未来の日本が沈まないための、最後のチャンスなのだと思うのです。

このままのアホ政治やアホリーダーを選び続ける事をアホ国民が続けさせると・・・日本民族は滅亡する可能性も有り得ます。

原理原則を無視しつづけて生き残ったモノなど1つも歴史上には存在しません。

貴方はプリンシプルを大切に日々考え、日々感じ、日々行動をしていますか???