世界中で”日本売り”が始まった!
諸外国の多くのニュースは”日本売り”のニュースが多発しているのが現在の状況です。この流れは、強まりこそすれ弱まる事は無さそうですね!
日本に有る”カレー物価指数”日本人が大好きなメニューのカレー1人分を作るコストで日本人の生活レベル、豊かさを表現する指数です。2015年は家庭で作るカレー1杯のコストは247円、それが10年後の2025年10月時点では約2倍弱の451円となる程の食費の実生活コストは爆増している状態です。でも、日本はこの流れを止める力はもう有りません。
日本社会は、国際学術誌でもしばしば「制度的硬直性(institutional rigidity)」や「問題先送り国家(procrastinating state)」として分析されます。端的に言えば、原理原則を理解していながら、集団の“空気”を優先して政策選択が歪む国です。そして残念ながら、多くの国民がその歪みを「伝統」や「美徳」として許容してしまう。悪慣れが社会のデフォルトになっているのです。
「右翼おばさん政権」の運営は、その縮図のようです。「財政は慎重に。でも景気は良くしたい。インフレは嫌。給付は控える。株価は下げたくない。賃金は上げたい」——これらを同時に成立させる政策モデルは、どのQ1誌を探しても存在しません。学術的に成立しないセットメニューを、政治的“期待”だけで押し通そうとしている姿は、むしろ行動経済学が指摘する「希望的観測バイアス(wishful thinking)」の典型です。
政権の中心ロジックは“インフレ頼みの景気回復”です。物価が上がり、大企業の売上が増え、利益が生まれ、その利益が賃上げにつながる——という物語。だが国際比較研究では、インフレ先行で賃金が追いつく国はほぼ皆無です。OECDのデータを引用した複数のメタ分析でも、“物価>賃金”が続く経済は例外なく「生活苦・消費減退・政権支持率急落」の三点セットに向かうと示されています。
日本は、その分岐点にいながら、なぜか「期待すれば追いついてくれる」と信じてしまう。これは政治経済学で言う「期待依存の政策形成」(expectation-based policymaking)であり、長期的には必ず歪みを生む危険な構造です。
株価の上昇も同じ構造です。現在の高株価は実態ではなく“期待”の反映であり、金融経済学の古典的知見でも、期待で持ち上がった市場は期待で崩れます。期待が崩れるとき、企業の競争力、賃金、消費という“本体”が弱い国ほど急激な反転を起こします。研究者が日本市場を「温度で膨らんだ風船のようだ」と評するのは、この脆弱性のためです。
一方、実体経済に目を向けると、実質賃金は10カ月連続マイナス。企業の設備投資はインフレ率にも満たず、実質では横ばい。生産性は30年ほぼ停滞。人口は減少し、若年層の労働力も縮小。この状況で政府・企業・家計という“3つの消費源”がすべて止まっている。制度経済学の観点では、これは「経済循環の三重停止(triple stagnation)」と呼ばれる深刻な状態です。
しかし政権は「バラまきでは無いと強弁してばら撒く」「財政は健全だ」と言いながら、景気を良くするとバラマキ宣言をする。正しくアクセルを踏まないままスピードを上げるようなもので、物理法則にも経済法則にも反しています。政治学の公共選択論では、これを「政策のメッセージと手段の不一致(instrument-message mismatch)」と呼び、短命政権で頻発する現象として分析されています。
75%の支持率の高さも、実は構造的に危うい。コアの支持層は10〜20%と極小で、ポピュリズムを満たす言説が多くの支持を得て、残りは“就任直後のご祝儀”と“女性首相への期待”で成り立つ非常に脆弱なもの。比較政治の実証研究では、こうした「裾野の狭い支持率(narrow-base popularity)」を持つ政権は、一度つまずくと回復しません。支える人数が少なすぎて、期待の崩壊を止められないからです。
では、なぜ日本人はこうした“エビデンス無視の政治”を許容し続けるのでしょうか。社会心理学では、日本社会のような高文脈文化では「和を乱さないこと」が優先され、不合理も“不快になりすぎないなら可”として受け入れられやすいと説明されます。さらに行動科学では、衰退が“急ではなく、じわじわ進む”と、人はその痛みに鈍感になりやすいことが示されています。
つまり、日本人は、衰退がゆっくりなら耐えてしまう。これが国としての最大のリスクです。そして、その限界点(墜落フェーズ)に到達してしまって居るのです。
未来の負担が雪だるまのように膨らんでいるのに、「まあ今じゃなくてもいいか」と棚に積む。財政赤字、人口減少、老朽インフラ、産業競争力の低下、莫大な被害が確実な地震対策、地球沸騰化問題——どれも本来なら“今すぐ対応すべき案件”なのに、日本は「未来の日本人に任せる」という奇妙な伝統を続けています。
これはブラックジョークで言えば、「地震が来るとわかっているのに、家具を固定せずに“揺れてから考えよう”と言う国」のようなものです。学術的には“危機の非対称的評価”と呼ばれますが、生活感覚としてはただの「先送り癖」です。
本来、エビデンスを重視するなら、原理原則に戻るべきです。消費源の回復、賃金の構造改革、産業投資の強化、社会保障の再設計。どれも避けては通れない。しかし日本社会は今も“空気”を優先し、原則を後回しにしてしまう。これが国全体を弱くしているのです。
結局のところ、日本の最大の課題は、政治ではなく「問題先送りを許す国民性」そのものなのかもしれません。そして私たちは、その構造をどこかで理解しながら、今日も「まあ何とかなるだろう」と自分に言い聞かせて生きてしまう。この国の危機は、いつも“静かに”“ゆっくり”進行するからこそ恐ろしいのです。