同じ政党なのに1年で真逆の元の悪い政策に戻る無茶苦茶
■「政策が“昨日の天気”で変わる国」——米と日本の未来をめぐるやさしい絶望
「何でこうなるのかな」。石破前首相のこの一言に、日本の農政が抱える“長年の既視感”がすべて凝縮されている気がします。同じ政党、同じ省庁、同じ会議室で話しているのに、担当大臣が変わった瞬間に政策が真逆へ回れ右する——まるで天気予報より当てにならない国策。これを海外の研究者が見たら、恐らく「日本は政策をランダムウォークで決める実験国家なのか」と首を傾げるでしょう。
Q1ジャーナルの公共政策論では、こういう状況を “政策のパス・ディスコンティニュイティ(断絶)” と呼んで警戒します。行政の継続性が失われると、現場は“前回の反対をやるだけの仕事”に追われ、リソースが蒸発していく。日本はこの悲しい実験を半世紀以上続けてきました。
■「減反をやめる」増産と言った翌年に「やっぱり生産調整を」と言い出す国
石破政権が「減反やめよう、増産しよう」と舵を切った矢先、次の農相が「需要に応じた生産が基本」と、一見きれいで誰も反論しにくい言葉で政策を再び先祖返りさせた。でも、学術的に言えば「需要に応じた生産」というのは “変動の大きい農作物では不可能に近い命題” です。特にコメのように保存が効かず、需給が1割ブレるだけで価格が乱高下する作物ではなおさらです。昨年の“令和のコメ騒動”は、まさにその典型例でした。
どこかの誰かが隠して儲けたわけでもなく、ただ単に「供給量が足りなかった」。それだけで日本では生活必需品の価格がジェットコースターのように跳ね上がるのです。これを見た海外研究者は、「どうして先進国で唯一、国家備蓄と市場設計の議論がまともにされないのか」と本気で心配するでしょう。
■「戦車はある。でもパンがない国」を笑えません
石破氏は食料自給率38%(ほぼ自給率100%の米以外は15%)という、先進国では奇跡に近い低さにも触れました。国際学術誌の安全保障論では、食料は燃料や弾薬と同じ“戦略リソース”として扱われます。戦争は長期化し、補給線は絶えず攻撃される——ウクライナの例は世界中の研究者の共通認識です。
そんな中で日本は、“戦車を磨きながらおにぎりの中身を外国頼み”という、シュールを超えた国家運営を続けています。もはやブラックジョークではなく、リアルジョークです。
自衛隊【たまに撃つ 弾が無いのが 玉に傷】(たまにうつ たまがないのが たまにきず)自衛隊の問題点を揶揄した川柳。慢性的な予算不足な上、その配分も人件費や正面装備に回され、備蓄弾薬が極めて少ない事を揶揄するものである。
【防衛力=経済力】・・こんな当たり前の事が日本人には理解出来て居ない。85年前も今も!!!兵器の数だけ増やしても、撃つ弾を買う金が無ければ戦う事など出来ませんよね!
経済力の基本は国民が稼ぎ出す力が強い事、そして日々空腹にならない事。80〜84年前の太平洋戦争で死んだ日本の兵隊の約6割は戦闘での死亡では無く、餓死(病気)なのですね!80〜84年前も敵国アメリカに経済的には大依存していました。今も仮想敵国中国にアメリカ以上に大依存をしています。
仮に中国と戦闘になれば・・物資を止められ日本経済は1年ももたない可能性さえ有り得ます。
そして日本人の悪い癖として、こうした問題に 「慣れる」と云うより確証バイアスで自分の都合が良い考え方と解釈をする という能力があります。慣れると、議論しなくなる。議論しなくなると、改善されない。改善されないと、「まあこんなもんだ」と受け入れてしまう。
心理学ではこれを “悪慣れ(maladapted acceptance)” と呼びます。最初は違和感があった不合理にも、人は繰り返されると馴染んでしまう。まるで、家の柱が少しずつ傾いていくのに誰も気づかないように。
■耕作放棄地とクマ出没という「静かな悲鳴」
市街地にクマが出没する問題——これも農業政策の歪みの副作用として、多くの学術研究が指摘しています。耕作放棄地が増えると人が山に入らなくなり、クマとの境界が曖昧になる。生態学では当たり前の知見ですが、日本では「今年はクマが多いらしい」で済まされます。
中山間地の水田は、単に米を作るだけの場所ではなく、
洪水調整
生態系維持
土砂災害抑制
といった“公益的機能”を持つと数多くの論文が示しています。それを支えるために必要なのは、本来、継続的で安定的な政策です。でも日本は、毎年違う答え合わせをする「農政ガチャ」を続けています。
■「問題の先送り」が国家の標準操作になるという悲劇
ここまで来ると、もはや農政の問題ではなく、日本社会全体の構造的問題です。
気づけば、私たちは
少子化
社会保障
インフラ老朽化
財政赤字
食料安全保障
これらすべてを、親から預かった宿題のように机の端に積み上げ、「まあ明日考えるか」と先送りしてきました。
でも未来の私たちは、今日の私たちも殆ど余力は有りませんが、未来は過酷な程にお金も人手も全くありません。つまり、私たちは“未来の自分より豊かな今の自分”です。それなのに問題を未来に押しつけ続ける——これはドンドン未来へ行く程豊かになると感じられ成長する高度経済成長期には許された悪習かもしれませんが、いまはただの 国家的自傷行為 です。
■「悪に慣れた社会」は、静かに壊れていく
日本人はまじめで優しいと言われます。しかしその裏側には、「問題に真正面から向き合わないやさしさ」という危険な側面もあります。不合理に気づいても声を上げず、政策の矛盾を見ても「しょうがない」で済ませ、国がゆっくり壊れていくのを、礼儀正しく見守ってしまう。
でも、そろそろ気づくべきです。慣れることは、時に最も深刻な危険なのだと。問題を先送りする社会に未来はありません。そして、農政の迷走はその象徴に過ぎません。
“気づかぬうちに壊れていく国”に住む私たちこそ、まずは「慣れた不合理」に違和感を取り戻さなくてはいけない——そんな一縷の願いを込めて、私は日々祈って居ます。日本人が早く現実に気付く様にと!