やりっぱなし、検証⇒反省⇒信賞必罰の無い民族
■「66兆円かけて出生率"1.20"──それでも全く反省しない国」に生きる私たちへ
気がつけば、日本の少子化対策は1990年の「1.57ショック」から30年以上続き、その累計政策は10政策にも及び投資額は66兆円を超えました。66兆円といえば、もはや国家的なフルマラソンです。しかし、ゴール地点の出生率は1990年の「1.57ショック」からさらに下がり、2023年に1.20という過去最低。
しかも東京は0.99という“1を割る”衝撃的な数字。投資の割にリターンがゼロどころかマイナス。企業なら即・経営責任問題ですが、日本社会ではなぜか「よし、次も同じことを続けよう」になる。不思議を通り越して、もはや怪談です。
1994年に「エンゼルプラン」を作り、1999年には「新エンゼルプラン」。2000年代には「少子化対策大綱」「子ども・子育て応援プラン」。2010年代には「子ども・子育てビジョン」。そして2023年には「異次元の少子化対策」迄リーダーが変わる度に10回も名前を変えて新政策を発動。
累計30年余の間で10回も……名前を変えて内容を変えた“つもり”のプランを量産してきました。いっそガチャのレアカード並みに種類だけは豊富です。
でも、結果はどうでしょう。出生数は1994年の124万人から、2023年には4割減。これだけ数字が落ちても「政策は一定の効果があった」と胸を張れる官僚のメンタルは、もはや国の希少資源かもしれません。
待機児童は減り、保育所は増えました。しかし、問題はそこではないのです。国民の本音はシンプルです。
・経済的に不安
・仕事が忙しすぎて余裕がない
・結婚そのものを躊躇う
・そもそも「産み育てたいと思えない」
・少し知能高い人は、自分(親)の人生を犠牲にしないと子は持てないと自覚している。
日経調査では、結婚・子育ての壁として”71.3%”が「経済的負担」、”62.3%”が「仕事との両立の難しさ」と回答しました。この数値は肌感覚で若者は日本には希望有る未来が無いと感じている故でしょう「給料は上がらず、仕事だけ増える日本社会でどうやって子どもを育てろというのか?」という悲鳴は、もはや国民共通のBGMです。
さらに、これからのAI時代(今)フィジカルAI時代が到来する2026年末のエマージェントアビリティー越えの爆発進化⇒AGI(2027〜2028年)⇒ASI(2029〜2035年)時代を考えれば、普通の人は仕事さえ獲得できる保証など無いのですね!現実に2人に1人は働く場所(雇用)さえ無くなる可能性が色濃いです。
それでも、政府の発想は「児童手当を広く配ればいいのでは?」「貧しい若者にお米券配布」をすれば良い。専門家は「広く薄く配る現金給付は効果が低い」と指摘していますが、バラマキ予算を配ること自体が“目的化”した日本では、この種の指摘は風に流されるだけです。
さらに深刻なのは、「どんな施策でも産み育てたいと思えない」という回答が1割弱いた事実です。ここまで来ると、もはや制度の問題ではなく、社会そのものが疲弊している証拠です。
本来なら、66兆円使って結果が出なければ、政治も官僚も徹底検証して方針転換を図る!ダメ政策を決めた人間の首を切る!──そんな“当たり前”の処方箋が必要です。
ところが、日本は“信賞必罰”という言葉をどこかの倉庫に置き忘れてきた国です。66兆円と云う莫大な資金を無駄にし10回も失敗しても誰1人も責任を取らない。成功しなくても予算は増える。悪慣れし、制度疲労を放置し、「まあ仕方ない」で流す。この空気が、少子化より先に日本を衰えさせています。
そして、政府は最近、「人口戦略本部」を立ち上げました。いよいよ大本営感が出てきましたが、独身研究家の荒川氏が言うように「できもしない議論」はもう不要です。なぜなら、これから日本は“多死社会”に突入し、今後50年間、毎年▼100万人ずつ人口が減る未来がほぼ確定しているからです。
これは予測というより、ほとんど最新AIが予測する天気予報のような確度の高さです。
「子どもを産むか産まないかは個人の自由」。それは当然尊重されるべきです。しかし、社会として「生きづらいから産めない・育てられない」を放置したまま人口が減れば、残された私たち現役世代はどうなるでしょうか。
──そう、「死ぬまで”搾取”され続ける未来」が待っています。
年金は減り、税負担は増え、社会保障は縮小。インフラは維持できず、地方は消え、都市も維持が困難になる。それでも政府は「異次元」と名前をつけた何かを打ち出し、「あとは若い皆さんよろしく」と言う。
これでは、国民は実験動物どころか“永遠の労働力・人畜国家”です。
少子化の本質は、「子どもを産みたいと思える社会かどうか」。それは、結局のところ“私たち全員”の生きやすさの問題と直結しています。
66兆円使っても解決できなかった理由は、政策の失敗ではなく、日々私が本ブログで声高に叫び続ける「日本社会そのものの構造的な不合理」を変える努力をしなかったからです。
問題先送りは、もう限界です。この国の未来は、私たち自身が変わらない限り(自滅民党を排除しない限り)、数字のように静かに右肩下がりになるだけです。
そして怖いことに──その「静かさ(愚かさ)」に慣れてしまうのが、日本という国なのですね。