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強欲悪慣れ中毒症(シャブ中)の患者ばかりの国の未来は?

悪慣れ国家ニッポン——「先送り」という麻薬の末路・・悪慣れの行きつく先は”全員悪党国家”となる。

日本人の多くはまだ気づいていない。原理も原則もそっちのけで、未来の世代にツケを回して、現役世代にお小遣いをばらまく──この国が歩んでいる道が、どれほど恐ろしいかを。

2013年に始まった「アホノミクス」は、まるで“借金で幸せを演出するショー”だった。低金利と紙幣増刷、バラマキで景気を装い、見た目の数字を整えた。だがその結果、私たちは「失われた30年」を「失われた半世紀」に延長しつつある。貧困層は増え、中間層はやせ細り、国の借金はGDPの軽く2.3倍を超えた。なのに政権も国民も、誰も本気で反省しない。

むしろ「もっとばらまけ」と叫ぶ政治家ほど人気者だ。──そう、我々は“優しい破滅”を愛してしまったのだ。

気がつけば日本は、家計簿の赤字を「将来の自分がなんとかするだろう」と信じて散財する大学生みたいな国になってしまいました。補正予算で17兆7000億円、対策全体では21兆3000億円──財布の紐は完全に壊れ、もはや紐ではなく輪ゴムです。市場はさすがに眉をひそめ、日本国債の“信用ダイエット”が始まれば格付けはスルスル落下、長期金利はムクムク上昇。金利が上がれば国の利払いは増え、家計のローンも重くなり、物価はさらにふくれ上がる。国も国民も、膨らんだ請求書を見て「これは誰が払うんだっけ?」と首をかしげる始末です。

政府は「積極財政で国力を強く」と胸を張りますが、体力づくりのつもりが過剰摂取でメタボを悪化させる未来がちらり。日本国債が本当に“健康診断で再検査”となれば、円安も物価高も一層加速するでしょう。そろそろ、未来の自分にツケを投げ続ける習慣を見直さないと、国全体がリボ払いの沼に沈んでしまいます。

A. ポピュリズムという甘い毒

古代ギリシャの哲学者プラトンは、「デマゴーグ(扇動政治家)」こそ民主主義のアキレス腱だと警告した。2500年前の言葉が、令和の日本に再び蘇っている。
「国民のために」と言いながら、実際は「選挙のために」。未来の税収を担保に、今日の支持率を買う。それが現代版の“政治的リボ払い”だ。

経済学者ジョエル・サスらの研究によれば、ポピュリズム(大衆迎合政治)は短期的には支持を集めるが、長期的には経済を蝕む。アルゼンチンを見ればわかる。1916年以降、ポピュリズムが常態化した同国の1人当たりGDPは、米国の半分、ブラジルの1.25倍にまで落ち込んだ。
──まるで“未来からの借金で今日を延命する病”のようだ。

B. 「悪慣れ」という社会的麻酔

日本も似た道を歩んでいる。補助金、減税、給付金……。私たちは「何かもらえること」に慣れすぎて、国民の圧倒的多くの「もっとばらまけ」の連呼が状態化した。もはや「自分で立つ力」を失いつつある。国の借金が1415兆円(2024年度時点)という数字も、日常のBGMのように流されてしまう。誰も驚かない。まるで“地震速報が鳴り止まない国で、誰も避難しない”ようなものだ。

社会心理学では、これを「正常化バイアス」と呼ぶ。異常な状態が長く続くと、人はそれを“普通”と感じ始める。つまり、破滅への道も「慣れれば快適」になるのだ。
そして、この快適な錯覚こそが、日本の最大の敵である。

C. 「先送り」が文化になった国

本来、政治とは痛みを伴う選択のはずだ。だが日本では、“誰も傷つけない政策”が好まれる。結果、誰も救われない。少子化、高齢化、社会保障の崩壊……。どれも30年前から「わかっていたこと」ばかりだ。にもかかわらず、政治家は毎回“対症療法”でお茶を濁し、国民も「まあ仕方ない」と受け入れてきた。
そう、私たちは「問題を先送りすること」にさえ、慣れてしまった。

哲学者ハンナ・アーレントは、ナチスドイツを分析してこう語った。「最大の悪は、悪を悪と感じなくなることだ」と。日本社会の「悪慣れ」もまさにそれだ。

D. 終わらないリボ払い国家

経済の仕組みを単純に言えば、「未来の世代が返す借金で、今の生活を支えている」ということだ。つまり、子や孫の働く力を担保に、私たちは今日も「安心」を買っている。その構図に気づかないまま、「給付金で助かった」「税金が減ってうれしい」と喜んでいる。だが本当は、それらは“未来への借用証書”だ。

アルゼンチンはこの構造から抜け出せず、100年のあいだ何度も経済破綻を繰り返した。日本もいま、同じ坂を静かに下っている。

E. 「悪慣れ」とどう向き合うか

この国の最大の病は「絶望」ではなく、「鈍感」だ。そして、それを変える薬は派手な革命でも、SNSの怒号でもない。小さな違和感を見逃さず、「これっておかしくない?」と呟く勇気だ。

ポピュリズムが台頭する時代ほど、理性は静かである。だが、静寂の中で考える人こそが、民主主義を救う最後の砦になる。

いま日本に必要なのは「新しい希望」ではなく、「古い原則の再確認」かもしれない。
つまり、未来の世代に借金を残さない。嘘で票を取らない。国民が“考えること”をやめない。

そうした当たり前をもう一度取り戻すことが、何よりの「再生」ではないだろうか。

──そして、いつの日か私たちが孫にこう言えるように。
「ごめんよ。昔は少しバカな国だったけど、最後にはちゃんと気づいたんだ」と。