生きる意味
アメリカ大リーグ・・ドジャーズが勝った!!!凄いエンターテイメントであった。野球など全く興味の無い私でも・・躍動感が有る毎回ドキドキする手に汗を握る程の見ごたえが有った。
それに引き換え思考停止国家・ニッポン〜永遠に繰り返される消化試合の様な“忙しいだけの人生”〜
本当に日本で極少の各部門で超優秀な人は大谷翔平氏や山本義信氏の様に日本を後にしてしまうだろう。
気づけば、今日もまた昨日の再放送だ。・・日本のテレビの再放送だらけと日本人の人生は被る!
「地方都市も含む“都市的地域”に住む人」は日本人の約4人に3人約9,400万人(全国の74.5%)。74.5%の都会では、朝、目覚ましに叩き起こされ、満員電車に押し込まれ、気がつけば定時を超えていた。残った仕事を片づけて帰路につくころには、もうヘトヘト。晩ご飯? 適当でいい。趣味? そんなの、時間があったらやりたいよね……。そんな日本人の姿に、ドイツ人はきっとこう思うだろう。「それ、人生って呼べるの?」と。
思考停止し、仕掛ける側が金で醸成した空気感に縛られ問題先送りが状態化した日本人の今の現実である。
ドイツ人の平均年間労働時間は1349時間。それに対して日本人は1598時間。実に年間249時間=約31日も多く働いている(現実は日本人は最低でも1800時間、中小零細なら2000時間は働いている)のに、時間あたりの賃金はドイツの約半分。残酷すぎる“努力の無駄遣い”である。
生産性もドイツは日本の1.4倍。要は、日本人は「がんばりすぎて、報われてない」のである。
だが、問題は数字だけではない。この国には「忙しいのが当たり前」という謎の空気が蔓延し、その空気が思考停止を促進している。そして、その空気を生み出しているのが、組織でも制度でもなく、私たち自身だという不都合な真実。
私たちは、「何となく皆がそうしているから」という理由だけで、時間も心も人生もすり減らす働き方を続けている。空気に支配され、変えるべきことを変えず、「そのうち良くなる」と思考を先延ばしにする。だが、その“そのうち”は永遠に来ない。
哲学者ニーチェは、「今この瞬間が永遠に繰り返されるとしたら、それを受け入れられるか?」と問うた。あなたは、今日のこの1日を、死ぬまで何度でも繰り返したいと思えるだろうか?
つき合い残業、意味のない会議、心を殺すようなルーティン。果たして、それを“永劫回帰”したいと思えるだろうか?もし「ノー」なら、それはあなたが“生きていない”ことを意味する。
一方、ドイツでは「人生を楽しむ」という視点が、教育・社会制度・文化に根を張っている。彼らは休暇を義務のように楽しむ。2〜3週間のバカンスは当たり前。旅行先のプールサイドで何もしない1週間を過ごすのも「贅沢な時間」として大切にする。遊びや趣味は「息抜き」ではなく、「人生の本番」なのだ。
対して日本では、「休暇=体力回復」。旅行すらも「効率良く動く旅の工程表」で消耗戦になる。人生の主役は仕事であり、休日はそのための“補修時間”。まるで壊れかけたロボットのメンテナンスだ。
しかも日本人は、「自由な時間がない」と言いながら、いざ定年後に時間ができると「何をしたらいいか分からない」と立ち尽くす。
──それは、考えることをやめて、命令されたことだけをこなす“仕事ロボット”として生きてきた証かもしれない。皮肉なことに、「自由がないことに慣れてしまった」人間は、自由を与えられると不安になる。
そしてまた、「仕事がある方が落ち着く」と言い出し、シルバー人材として再び“労働”に戻る。まるで、檻を出た猿が自分から檻に戻るような話だ。これは単なる文化の違いではない。哲学や教育の違い、そして「今をどう生きるか」という問いに対する姿勢の差だ。
日本では、「老後にゆっくり」と言うが、その“老後”には体力も気力も残っていない。現に、60代で病気に苦しむ人も少なくない。そして、そうなってから初めて「あのとき、やっておけばよかった」と後悔する。
だが、日本社会はその“後悔”すらも「美談」にしてしまう。涙の退職祝いや、病床からの手紙がメディアで感動的に紹介され、「いい人生だった」と締めくくられる。
……本当にそうだろうか?
ドイツの街角では、手をつないで歩く老夫婦がよく見られる。若い頃から一緒に時間を過ごしてきたから、今でも自然にそうしている。人生を「今」楽しんできた証だ。その姿に、私たちはちょっとした憧れを覚える。だが、すぐに現実に戻る。「うちはそんな余裕ないからね」と。
そうしてまた、今日も満員電車に乗る。
国内の日本人の多くの人々の繰り返される、哲学も意思も希望も情熱も無い、生きる意味が感じられない、ただ、ただ、忙しいだけの人生。
それでも、あなたは明日もまた「そのうちやろう」と言うのだろうか。