AI時代をキャッチアップ出来ないと・・・
ヒト型ロボットが工場で働く時代が、もうすぐそこまで来ているという。AIロボカーがガンガン走る未来が確実に実現をイメージ出来る所迄時代は来ている。AIロボカーは人を乗せて移動するAIロボットなのですね!
人型ロボットは人手不足を埋める救世主として期待され、市場は2030年代には10兆円規模に膨らむらしい。だが、思わず苦笑してしまう。ロボットが不足を埋める前に、私たち日本人の「判断力の空白」を埋めてほしいと願うのは、きっと私だけではないだろう。
かつて「モノづくり立国」と胸を張ったこの国は、今やロボットより遅く動く。人材育成は予算削減の常連項目、現場の知恵はマニュアル化で失われ、AIに学習させるデータすら整理できない。それでも「伝統」と「現場力」の言葉をお守りのように唱え、変化を先送りする。
その間に、アメリカではAGI(人工汎用知能)が2年以内に誕生すると言われ、中国では超知能を国家戦略として量産中だ。日本ではまだ「生成AIをどう活用するか会議」が永遠に続いている。
そして恐ろしい事にAGI(人工汎用知能)は人間しか持てないとされたEQ力さえ身に付け、自ら考え、自ら相手をイメージして、最適解を提案して来ると云う。事象の多くを認識し、未来を推定して、未来に起きえる事を理解して事前に準備さえ簡単に出来る様にもなる。
現在ヒト型ロボット1体の価格は現在約770万円。これが「価格が5000〜1万ドル(約77万円〜154万円)程度まで下がれば、この業界はオートメーション(自動化)からオートノミー(自律化)へとシフトする」激動となる“大転換点”だという。そして、そのフィジカルAIヒューマノイドの知能は+200万円も出せば、全てのノーベル賞学者の知能さえ上回る知能を提供してくれる。
だが、すでに私たちはもっと高価な「非効率」というロボットの形をした非効率な肉体(動物的)を既に何千万体も抱えている。省庁間のハンコの受け渡し、FAXで送られる書類、デジタル庁の紙の会議。これらを自動化するだけで、GDPは数十兆円分跳ね上がるはずなのに、なぜか「前例がない」と止まる。もはや日本社会そのものが、人間型のレガシー・ECUがサルレベルのタンパク質で出来たロボットなのかもしれない。
実現が2年後と言われているAGIの覇権争いでは、米国、中国、巨大テック企業、そしてオープンソース勢がしのぎを削る。勝者が世界のルール(社会のOS)を握る。だが日本はそのどこにもいない。議論よりも“様子見”、戦略よりも“根回し”を優先し、AI開発よりも予算執行の「消化率」を気にする。人間がAIを支配するか、AIが人間を支配するか——その二択の前に、日本は「誰も責任を取らないまま、なんとなく共存」する第三の道を選びそうだ。
工場でのヒト型ロボットは、再設計せずに既存の環境に溶け込めるという。皮肉なことに、それはまるで日本社会にぴったりだ。新しい制度や価値観を作るより、「古い構造に合わせる」ほうが安心する国民性。だからこそ、ロボットは受け入れられても、改革は受け入れられない。悪慣れした組織は、まるで“人間の形をした惰性”だ。
AIの研究者ベン・ゲーツェル博士は「超知能(ASI)は避けられない」と言う。もしそれが本当なら、ロボットが人間を超える日は遠くない。だが私たちは、それを恐れる前に、自分たちがすでに思考を停止した“半自動人間”であることを思い出すべきだ。政治家はAIの危険を語りながら、AI以下の判断力で国を運営し、国民はAIに職を奪われると嘆きながら、AIより安く働くことを誇りにしている。
人類が作る最後の発明がAIだというなら、日本人が作る最後の発明は「責任の所在不明システム」かもしれない。悪慣れとは、悪を悪と認めなくなること。問題を先送りし続けた社会は、やがて未来そのものを先送りにしてしまう。
ロボットが人間を超える日、それはきっと“効率”の問題ではなく、“誠実さ”の問題だ。世界が新しい知能を育てる間、日本は変化を嫌い現状維持の古い言い訳を育てている。もはやAIに学ぶべきは技術ではなく、変化を恐れぬ勇気そのものなのだ。
AI時代を真剣に考えずに全くと言って良い程投資をしない。そんなリーダーは取り換えないとダメなのに、日本人はそれもしない。恐ろしき思考停止の民族ですね・・ホント・・・ガックリ