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日本人の殆どは”自由”の意味が理解出来ていない!

■ 自由という名の“重労働=苦”──安直な我欲主義が日本を腐らせる前に!真の自由は重労働の大苦と表裏一体不可分⇒原理原則!、こんな簡単過ぎる事も今の日本人は良く理解出来て居ないと感じる事が多々あります。

おかげさまで現代の日本は、民主主義の自由があり、自由主義経済の社会となっています。これ、実は日本国の長い歴史2700年の中で、やっと手に入れた(アメリカに恵んでもらった)“前代未聞”の贅沢なんです。ところが、その自由を「便利な空調」ぐらいに勘違いして、スイッチ一つで涼しくなると思っている人があまりにも今の日本人には多い。残念ながら、日本人の多くは”自由の本質”をほとんど理解していないように見えます。

学校教育はというと、もはや「考える力」を伸ばすより「正解を当てる力」を競わせるクイズ番組化し、思考より暗記を重んじてきました。その結果、社会は“反知性主義”という名のゾンビを大量生産。自分の頭で考えず、隣のゾンビの歩幅に合わせて序列(順番)を付けて行進するだけの人々です。

東京大学卒の無能者を大量生産しました。故に日本国は衰退に次ぐ衰退をしている現実(真実)がそれを証明しています。

──そして気づけば、努力を忌避し、安直な「我欲主義」が蔓延しました──

自由とは、本来とても高価な宝物です。努力と痛みの死ぬまで続く分割払いでしか買えません。

@ 経済的自由は、当然ですが過不足無きお金という酸素がなければ窒息します。飢えて死にます。お金を稼げる能力を付けるには、途方もない努力と鍛錬(思い通りにならない大量の時間=苦)が不可欠です。

A 時間的自由も、お金という酸素がなければ窒息します。お金と等価交換できる価値あるスキルを獲得する為には”大苦”が伴います。

B 精神的・知的自由は、まともな教育を受け、さらに自分で苦に耐えて学び続け、自分で頭をひねらなければ得られません。

C 肉体的自由は、上記の@とAとBの自由が有り、鍛錬と云う苦の先の心と体が健康でなければ動かせません。

D 権力的自由は、他者から侵されないだけの力を自分で苦に耐えて築かなければ、砂上の楼閣です。

どれも、ソファに寝転がって「自由最高」と叫んでいるだけでは手に入りません。皮肉なことに、自由主義という時代は、最も努力を強いる、”大苦”を乗り越えた先にある最も“不自由な仕組み”なのです。

自由の本当の意味さえ理解出来ない反知性主義者ばかりだから、優れた人(努力した人)にリスペクトする事も無くなったのでしょうね!今のやたら権利!権利!と主張する中身スカスカの若者ダケでは無く特にそれなりの年月を生きた年長者の反知性主義者には強烈な”痛さ(痛い人間)”を感じる事が多々ある。

■ 勝海舟が教えてくれる「不自由の修行」

幕末の勝海舟をご存じでしょうか。尊皇攘夷が大合唱の時代に、アメリカを知り、たった一人で考え抜き開国論を唱えた風変わりな人です。みんなが右へ倣えする中、左へ歩くというのは、英知と精神的な自由がなければできません。しかも彼は、反対派の武装集団の元へも護衛なしでノコノコ出かけていきました。常識的に考えれば「命知らず」ですが、彼にとっては「意志に従順であること」が当たり前だったのです。

実は勝は剣術・直心影流の免許皆伝。坂本龍馬でさえ千葉道場で汗と涙の修行を続けていた頃、勝はさらにその上をいく不自由な修練を積んでいたのです。

つまり──自由になりたければ、まず鍛錬に次ぐ鍛錬をして自らの力を高める為の不自由を愛さなければならない。これは現代にも通じます。若いうちから「自由が、自由が」と仕事を転々とし、努力を嫌って回避ばかりしていると、言葉だけ自由と妄想し、結局とてつもない「不自由な人生」に行き着くのです。

■ 自由とは、心の筋トレ

ドイツの心理学者エーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』で、こう問いかけました!「なぜ近代人は、手に入れた自由を投げ捨てて、ナチズムという全体主義に走ったのか?」

彼の答えは痛烈です。

自由は、耐えがたい孤独と責任を伴う。人々はその重さに疲れ、考えることをやめ、誰かに従属するほうがラクだと感じた。

なるほど──確かに日本でも「責任を取らない会議」と「責任をなすり合う政治」ばかり。責任という重りを誰も持ちたがらず、結局は全員が「誰の責任でもない不幸」に沈む。まるで、全員でゆっくりと泥船をこぐ競技大会のようです。

自由には、心の筋力が必要です。孤独に耐え、責任を背負い、自分の頭で考え、決断し続ける筋肉。ところが今の日本人は、努力という名のダンベルを投げ捨てて、スマホ片手に「努力不要!自由に稼げる!」という広告を眺めている。まるで闇バイトに引っかかる食い詰めのアホーの様ですね!!
それはまるで、筋トレを一切せずにボディビル大会に出ようとするようなものです。舞台に立つ前に、心がつるでしょう。

■ 「問題先送り」という国民的伝統芸

しかも我々日本人は、困難に向き合うのが異常に苦手です。問題が起きると、とりあえず「様子を見る」という名の放置プレイを発動し、「前例がない」という呪文で思考停止します。
その間に問題はスクスク育ち、気づけば凶暴なモンスターとして成人式を迎えるほど大きくなっている──もはや立派な国難です。

こうして「問題先送り」が伝統芸能と化し、「悪慣れ」してしまった。悪を悪と認めず、あたかも湿気のように受け入れる。でも湿気は、放置すればカビになるのです。そしてカビは、気づかぬうちに社会という家全体を内部から腐らせます。地震(試練)が来ればアッと云う間に倒壊します。

■ 不自由の先にしか、本物の自由はない

自由とは、もともと“タダ”ではありません。努力と痛みの支払いを求める、やっかいな請求書つきの贅沢品です。「困難は忍耐を生み、忍耐は練達を生み、練達は希望を生む」と聖書にもありますが──今の我々は、困難を見た瞬間に「逃亡」しているのです。

努力を嫌い、我欲に溺れ、問題を先送りし、悪に慣れすぎた今の日本。このままでは、「自由」という名の素晴らしい贈り物を、我々は持ち腐れさせたまま、静かに滅びへ歩いていくかもしれません。

それでも私は、ほんの少しだけ楽観もしています。なぜなら、歴史を見れば人間は追い詰められたとき、驚くほどしぶとく立ち上がる生き物だからです。しかし、いずれのケースも莫大な犠牲(貴方がその犠牲者の1人にならない事を祈る)を伴います。

…もっとも、その命の極限で「立ち上がる」までに、もう少し早く気づいてほしいとは思いますが。やるべき答えは随分前から明確になっている訳ですから・・

貴方は自由ですか?