日本人は上に行けば行くほどダメになる⇒例外無しの事例
「腐る建築」と腐らされる記憶――日本人の“悪慣れ”という病
最近話題の「腐る建築」。あの白木が美しいはずの美術館が、築たった24年で無残に朽ち、3億円もの改修費が必要になったというニュースを目にして、多くの人が「え?もう?」とつぶやいた。でもこれは建物だけの話ではありません。実は“日本という国”そのものが、静かに、そして確実に「腐って」いるのではないか――そんな風に感じてしまったのです。以下詳細ニュース
https://www.youtube.com/watch?v=Iyeam7kS7i0
白木の柱や軒先の外装は、塗装も防水も施されず、「伝統美」の名のもとに裸で風雨にさらされていました。専門家は「格子のように美しい」と讃えたものの、それはまるで、和菓子のような見た目をして中身はレトルトという“見栄えファースト”の風潮そのもの。まさに「ファスト化する建築」。いや、「ファスト化する日本人の判断力」と言った方が正確かもしれません。
そもそも、日本の伝統建築は「数百年耐える」と胸を張れるだけの理由がありました。雨を受け流す茅葺、湿気を逃す深い軒、そして定期的な葺き替えや木材の交換。そこには自然との対話、時間の循環、そして地域と共に暮らすという「文化」がありました。ところが、現代の建築では“見た目だけ”を拝借し、「維持」という一番大事な部分は切り捨てられました。
木材のサイズも耐久性に及ぼす影響は甚大です、この美術館に使われた木材のサイズは普通の経験値が有る建築関係者なら危ないと思える程にとても細すぎます。このサイズで木材を維持しようと思ったら半年に1回程の数千万円〜1億円程度(この設計では塗装費より足場と養生費が莫大となる)と推定される防腐塗装が不可欠です。さらに台風等で飛来物が飛んでくれば確実にバラバラになる極細サイズでも有ります。しかも杉材なんて材木の中でもっとも腐りやすい材種でも有ります。
こんな事は建築知識の基礎の基礎、若いヤンキー兄ちゃんが大工になり3年目でも知っている事です。
栃木県でも3番目に人口の少ない那珂川町(14,734人・世帯数は5,831戸・多くは老人)が年間総収入約10億円の弱小自治体が3億円の改修費を出す!そして半年毎(最低でも1年毎)に数千〜1億円の塗装費を出し続ける事の意味は?・・結論は即!全解体が最良の選択です。
https://www.town.tochigi-nakagawa.lg.jp/06seisaku/02zaisei/
言ってしまえば、“映え重視のハリボテ建築”が蔓延しているわけです。引っ掛かたヤツが悪いと云えばそれまでですが・・
そんな設計家が日本の多くの賞を受賞してほめたたえられている不思議な現実社会、それが日本です。
もちろん、素材や技術は進化しました。コンクリートや合成樹脂のおかげでどこでも同じ環境がつくれるようになり、雨の多い日本でも「乾いた見た目」のガラス張りが流行。でもその結果、木の呼吸も、土地の記憶も、風の通り道さえもすべて封じ込めてしまったのです。
こうした建築は「建てたら終わり」ではなく、「始まりすらしていない」。しかもその背景には、バブル崩壊後の長引く不況と、それにすっかり慣れきってしまった“持続性より即効性”の価値観があります。住宅ローンは35年、でも建物は30年もたない。それなのに誰も文句を言わない。まるで「腐るのは仕方ない」と諦めているような社会。
“悪に慣れ、悪を許容する”。これほど怖いことはありません。
駅舎は10年も経たずに柱が変色し、市庁舎の木材は6年でカビ。それでも「仕方ない」と受け流す市民、メディア、政治家たち。まるで、壊れる前提の社会インフラが“当たり前”になったかのようです。
でも、忘れてはいけないことがあります。
土に根ざし、風を読み、季節を迎え入れるような建築も、まだ絶滅していません。たとえば建築家・堀部安嗣氏のように、土地の履歴を丁寧に掘り当て、木の根を避けて道を曲げるような“利他的建築”を実践する人もいるのです。彼は、図面ではなく、足で歩き、目で見て、耳で風の音を聴きながら設計する。木を切らずに済むように建てる。そんな“時間”と“思いやり”を持った建築が、ほんのわずかでも存在しています。
しかし現実にはどうでしょう。都市再開発では、神社や公園までもが不動産として“転用”され、黄昏時の木漏れ日すらビルの陰に葬られています。人々の記憶のよりどころ――「風景」が消えていく中で、わたしたちの“思い出”もまた、静かに風化していくのです。
タワーマンションは見上げればキラキラしていますが、積立金の足りない将来、雨漏りすら自力で直せない“限界建築”に変わる可能性があります。そして棟梁不在の工事現場、外観だけで街並みを“演出”する商業施設…。「便利そうだけど、すぐ壊れる」――まるでスマホのような都市の寿命です。
結局のところ、“腐っている”のは木材だけではなく、“思考””価値観”なのかもしれません。
私たちは胆略的な見た目の映え「建築の美しさ」と引き換えに、「時間とのつながり」や「自然との対話」、そして「人間の記憶」を手放してきました。だが本当の伝統とは、見た目ではなく“続ける技”にこそ宿るもの。見栄ではなく、共に生きる知恵。
「腐る建築」は、私たち自身が“腐らせてしまった社会”の鏡かもしれません。
今こそ、問い直すべきです。
長持ちするのは何か?
次世代に残すべきものは何か?
そして、壊れる前に気づける心を、私たちはまだ持っているのか?