プロ探す、日本原野を、見渡せば・・溜息もれる、デスバレーかな
■悪慣れに慣れすぎた日本という国
日本という国は、どこを切っても「村社会」の強欲で2026年度の予算は122兆円だとの事、国家は衰退するのに予算だけドンドン膨れ上がる。デタラメ運営の断面図が現れる。効率性もクオリティも、ましてや時代の変化など、ほとんど考慮されない。優先されるのは「誰が顔役か」「どの派閥が強いか」「村の力学」のみ。
つまり人脈としがらみの力学だけで日本中のデタラメ物事が進んでいく。その卑近な例が芸能界とテレビ局の癒着などが、その最も分かりやすい例だろう。結果として、本当に価値あるコンテンツは生まれにくくなり、私たちは「退屈な作品」を我慢して見せられる羽目になる。いや、正直に言えば「我慢」すらせず、リモコン片手に他の媒体へチャンネルOFFで逃げる人も多い。
■鍛錬を軽視する国の末路・・・極少の本物のプロがプロとして評価されない国、日本
かつて舞台で鍛えられた俳優は、年齢を超えて役を生きた。28歳の女優が15歳から50歳を演じ切り、老けメイクすら要らなかった。だが今や「鍛錬」という言葉自体が死語だ。
結果、画面には「年齢不詳の人形劇」が繰り広げられる。セリフは奥行きを欠き、動作には生活感がなく、役の人生を感じられない。観ていて胸に去来するのは感動ではなく、「この人、昨日TikTok撮ってた方がハマってたんじゃない?」という冷笑だ。
鍛錬なき主役は、ただの衣装のハンガーである。脇役が実力を出せば「主役を食う」と叱られるので、わざと演技を抑える。こうして舞台は「実力を隠し合う茶番」となる。まるで日本の会社組織だ。優秀な若手が頭角を現すと、「君はまだ早い」と潰される。そうしてベテランの凡庸が居座り、組織は衰退する。
■「プロが脇役」が国を滅ぼす・・・強欲村社会の縁故力学で選ばれたド素人でも主役を張れる!そんな作品が面白い訳が無い。
現在放送中の「あんぱん」私も昨日録画分を2話暇つぶしに見た!もうどっちらかっていてお正月のおせちの重箱料理を子供が食い散らかした後の様な光景を感じた。全部がバラバラグチャグチャ、原作者も何故にこんなバラバラを書くのかと不思議だった。まさに・・劣化・・の一言である。
その中で主演よりも妹役の河合優実の方が「別格」と評判になっている。赤い口紅、風鈴の音、一筋の涙――彼女の演技はまるで朝ドラの文法を超えた存在感を放つ。SNSでは「蘭子の場面だけ別のドラマ」「鳥肌モノの芝居」と絶賛され、情報番組のMCでさえ「国宝」と持ち上げたほどだ。
蘭子が、嵩の戦友であり「九州コットンセンター」の新店長になった八木信之介(妻夫木聡)への思いを胸に秘め、鏡を見つめながら静かに口紅を引くシーンがあります。その後、蘭子はかつての婚約者のことも考えるのですが…その悩ましげで艶っぽい表情が視聴者を一瞬で虜にしたのです。
河合さんの演技に、ちまたでは「鳥肌モノの芝居」「毎日、河合優実さんの美しさと匂い立つような色気に目がくぎづけに」「河合優実のシーンだけ別次元」「朝ドラっていうこと忘れた」「蘭子のシーンだけ違うドラマみたいやな……と感じる女優・河合優実のすごさ」「涙を一筋流すタイミングまで絶妙」「せりふがないシーンの天才的な表現力」「うっとりと見とれてしまう……」といった声が上がっていた。
河合優実「表情だけであそこまで感情表現するとは…恐れ入った」「圧倒的存在感と、どことなく陰のある色気」「セリフはなくても恋する女の色っぽさ出せる24歳の河合優実恐ろしい」など、称賛のコメントが多数寄せられていました。作品のコンセプトを知り尽くして、脇役と自覚して、抑えても、抑えても内在するプロの輝きは消す事は出来ない。
■「悪慣れ」が国を滅ぼす・・・場の空気感が全てを支配する!それが悪党空気感でも肯定される。
裏返せば、プロなら普通が「国宝」「蘭子の場面だけ別のドラマ」「鳥肌モノの芝居」等々と毎回、毎回、河合優実(蘭子)が持ち上げられる、その原因は、それほど「全体の完成度」が村社会の金の為に低下している証でもある。つまり「本物は片隅に追いやられ、凡庸が中央に座る」。
「あんぱん」の前の「おむすび」など主役のレベルは遥かに低く、脚本も最低、脇役もやる気なし、時代感デタラメ・・本当に酷い作品と思う。「あんぱん」も五十歩百歩!・・回を重ねる程にひどくなる様なネットコメントが多い(私はもう離脱した)ネット上の評価コメントシーンだけたまに見る。
この朝ドラの主役のプロ不在の構図は、日本の企業のリーダーも同じだ、今の繁栄の基礎技術のHV車を大損覚悟で強引に世界で初めて発売し世界展開を推し進た最高の経営者は、改革嫌いの御心中の裏切りで葬り去られ、この企業の歴史から抹殺された。
この名経営者が言った「○○君程度に人間なら我が社には、そこらにゴロゴロ居る」と言われた〇〇君がリーダーに16年余も居座り続けている。そして○○君より優秀な人財は〇〇君により全部意図的に排除された様である。残ったのはYeSマンだけ!
政治も同じだ。議論より派閥力学、実力より序列。経済も同じだ。革新より根回し、失敗を恐れて挑戦は消える。教育も同じだ。好奇心より内申点、創造力より空気を読む力が評価される。これで世界に勝てるはずがない。
しかも私たちは、この状況に「悪慣れ」している。朝ドラが退屈でも、「まあそんなもん」と思う。政治が停滞しても、「どこも似たようなもん」と言う。企業が世界に負けても、「日本らしさが大事」と言い訳する。要は「低劣に慣れる」ことが、日本最大のリスクだ。
■プロを失った国に未来はない!
プロが消えた国に未来はない。ドラマは低劣、政治は停滞、経済は縮小、教育は劣化。なのに私たちは「これが日本」と受け入れている。だが、この「慣れ」は笑い話で済まない。
なぜなら、次の主役は「私たち自身」だからだ。問題を先送りし、実力を軽視し、プロを敬わないこの国が迎える未来は、「希望の朝ドラ」ではなく「破滅のドキュメンタリー」である。しかも再放送なしの一発撮り。視聴率どころか、生存率まで危うい。
もしかすると、後世の歴史家はこう書くかもしれない。
――「日本はプロを軽んじ、村社会を守り、そして誰も喝采を浴びないまま舞台を降りた」と。