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アマチュアばかりの国⇒真のプロが評価されず!インチキが評価される日本

朝ドラ「あんぱん」は日本社会の鏡──主役(プロ)不在の国の行方

私も録画をして置いて、時間つぶしの時に見る事がある。しかし、数話で離脱やむなしと感じる事が最近の朝ドラでは多くなった!特にあんぱんの前の「おむすび」は酷かった!!!是非朝ドラ『カーネーション』(2011年度後期放送のNHK「連続テレビ小説」)と比較して見て欲しい。その劣化度は一目瞭然である。

日本の朝の習慣に根付いた朝ドラ。その新作「あんぱん」では、主演の今田美桜さんと、脇を固める河合優実さんの演技の対比があまりに鮮明(プロと中学生の学芸会の差)で、視聴者をザワつかせている。主役より脇役のほうが光ってしまう構造は、もはや芸能界だけの話ではない。むしろ、この国全体の「悪慣れ」に満ちた縮図のように見えてしまう。

河合さんの演技は、視線の揺れや呼吸の間にまで役の人生を滲ませる。観る人に余白を委ね、想像力を引き出す。舞台やインディーズ映画で鍛えられた「演技を超えて役を生きる力」が、画面を支配する。一方、今田さんは可憐さと話題性を背負って登場するものの、感情表現は直線的で記号的。泣くときはしっかり涙を流し、怒るときは声を張る。わかりやすいが、心の奥底の陰影を探す楽しみはない。主役に期待される「人間の成長曲線」を支えるには圧倒的に力不足なのだ。

本来なら主役が物語を牽引し、脇役が支えるのがセオリー。しかし力の差が歴然であれば、脇役が主役を食ってしまう。今回の「あんぱん」では、その現象がまざまざと現れている。しかも河合さんは全力を出し切らず、抑えているのに、それでも存在感が勝ってしまう。

これは河合さんダケでは無く多くの脇役の役者が皆々抑えて演じている事が視聴者にも見えてしまう。これを観て苛立つのは、演出の責任か、監督の責任か、プロダクションの癒着の産物か。答えは簡単だ。日本社会が大好きな「目先の金勘定」と「忖度」の合わせ技である。

韓国ドラマでは演技オーディションと徹底した訓練が常識で、アメリカは脚本段階から主演の成長曲線を設計する。だが日本は、知名度優先、準備不足、そして演出家の弱腰が定番。結果、「役を生きる」ではなく「役を演じる」で止まる。これはまるで、実力よりもコネと序列で人事が決まる日本企業の縮図ではないか。

思い出されるのは「キムタク現象」だ。どの役を演じても結局「キムタク臭」が漂い、視聴者は飽きを通り越して怒りすら覚えた。だが制作側は「数字が取れる」からと起用を繰り返した。結局、芸能界も政界も経済界も、目先の話題性や短期的な利益を優先することで「本物」を育てる機会を失ってきたのだ。

問題はそれが「芸能界の笑い話」で済まないことだ。国の根幹にまで同じ論理が染みついている。才能よりも忖度、実力よりも序列、長期的価値よりも短期の金。だから日本人は「実力を正当に評価する力」を失いつつある。悪慣れした結果、凡庸さを受け入れ、「まあこれでいいか」と妥協する文化にどっぷり漬かってしまった。

「あんぱん」で主役に共感できない視聴者は、脇役に自分を託して楽しむ。それも一つの多様性だろう。しかし、本来「主人公の成長に国民が寄り添う」ことが朝ドラの醍醐味であるはずだ。そこに説得力を欠いた主役が座り続ければ、物語は空洞化していく。まるで、将来を担うべき若者に投資せず、老朽化したシステムに固執し続けるこの国の姿のように。

やがて「主役不在の国」になるだろう。目先の儲けに目がくらみ、実力を評価できない日本人。悪に慣れ、凡庸を許容し、気づけば「この国に本当に価値があるのか」と問われる未来がやってくる。ドラマの中の主役不在は笑って済ませられるが、現実の日本が主役を失うとき、誰が物語を導くのか。

そしてこんな低劣で全く意味が無いドラマが放送される主因は「日本人は全員12歳」のマッカーサーの言葉に行きつくのだろう。

それでも極少の心ある視聴者が「あんぱん」を見て抱く苛立ちは、実は日本社会全体への警告音かもしれない。今のままでは、私たちは自らの未来を脇役扱いにし、主役の座を放棄してしまう。その時、「国としてのドラマ」は、もはや誰も見たくないほど退屈で、痛ましいものになるだろう。

現実に日本のGDPは25年前はアジア諸国全ての合計の2倍も有った!しかし、今の日本のGDPはアジア諸国合計の1/7しか無い!その内、日本と云う国は・・・世界で全く相手にされない国に成り下がるのであろう。

環境が全てを定義する!貴方の人生も環境で決まる!全く相手にされない日本と云う環境、資源らしい資源が全く無い日本で・・貴方はどう生きるのでしょうかね?