「TL(タイムライン)の波」に溺れる国(日本人)孤立の恐怖
やっと今夏に我が家の庭で・・蝉の鳴き声が聞こえた!・・ちょっと安心した様な複雑な気持ちである。
「TL(タイムライン)の波」に溺れる国(日本人)──空気に流される思考停止列島
気がつけば、私たちの頭の中にある「思考」という名の機関は、運転をやめて久しい。「TLの波」という便利な名の海流に身を任せてしまえば、もう舵を握る必要もない。風を読む?そんな面倒なこと、しなくても流れていける。みんなが右を向いてるなら、右へ。怒ってるなら、怒っておこう。泣いてるなら、いいね押しておこう。そう、「空気」という名の教科書に、私たちは従順すぎるほど従っている。
「TLの波に乗って、ついポチってしまった」そんな言葉に、どこか安心を感じるのはなぜだろう。たとえそれが本当に必要なものじゃなくても、みんなが買ってるなら「きっと正解」だと信じられるからだ。これはもう集団無意識を超えた「集団安心装置」だろう。
でも──ちょっと待ってほしい。その「TLの波」、ほんとうに乗る価値はあるのか?
そもそも「波」って、押し寄せては引いていくものだ。ついさっきまで誰かを称賛していた波が、翌日には全力でその人を叩き潰している。情報の裏取りも、文脈の確認もされぬまま、感情だけが100倍速で増幅されていく。その様子はまるで、「感情のカルト」。怒りや悲しみの扇動には乗っかるのに、「冷静に調べてから考えよう」という意見は、TLの海底で息絶えていく。
人はなぜ波に流されるのか?答えはシンプルだ。「考えるより楽」だから。そして何より、「孤立するのが怖い」から。正論を言えば「空気が読めない」と言われ、少し違う角度から発言すれば「逆張りおじさん」扱い。叩かれたくないから、黙って流される。──こうしてできあがるのは、賢いフリをした沈黙の大多数だ。
私たちは今、情報の洪水ではなく、「感情の津波」にさらされている。
しかも厄介なことに、この津波には「確証バイアス」という毒が混ざっている。「自分の信じたい情報だけが目に入り、それ以外はノイズとして切り捨てる」──まるで見たい夢しか見ない夢遊病者だ。都合の悪い事実から目をそらし、耳心地のいい言葉だけをRTする。自分の意見すら、いつのまにか「誰かのTLのまとめ」によって構築されている。
これはもう「思考停止」ではなく、「思考放棄」である。
この国は長いこと、「空気に支配される文化」を美徳としてきた。忖度、和を乱さない、出る杭は打たれる…。それがSNSという拡声器を得たとき、同調圧力は“全国生中継”になった。そして皮肉なことに、その圧力に最も忠実に反応するのが、「悪」に対して一瞬だけ正義感をふるう時だ。炎上も、正義も、たった数秒の熱狂の中で消費され、翌日には誰も覚えていない。
誰かが叩かれているとき、沈黙することが正しさなのか。みんなが褒めているとき、本当にその価値があるのか。
もしかすると、私たちはもう、自分の頭で「考える」ことを諦めてしまったのかもしれない。それは日本社会の、ある種の“諦念の形”でもある。思考しても報われない。発言すれば叩かれる。だからこそ、「波に乗ること」が、最もリスクのない行動とされる。
だが──そんな社会に、未来はあるのだろうか?
「悪慣れ」するとは、悪に鈍感になることではない。悪があることを前提に、その存在に順応し、「しかたない」と納得してしまうことだ。「TLの波に流されず、自分の考えを持ちたい」そう言える勇気の価値は、これからますます重くなるだろう。
耳を澄ませば、波の音の向こうに、静かな問いが聞こえてくる。真の解決すべき大問題が見えて来る!SNSに安易に同調する事!「それ、本当にあなたの意見ですか?」
この問いに答えられない限り、私たちはきっと、これからも何度でも、思考を手放し、波に呑まれ続ける。気づけば人生そのものが、誰かのタイムラインの一部になっていた──その先に待ち受けるのは孤独⇒孤立である。孤独⇒孤立(多数の中の孤立・家族の中の孤立等)に気が付いた時にはすでに手遅れになっている事が多い!
そんな自分の人生を生きない未来だけは、どうかご勘弁願いたい。
貴方は今の今!自分の人生を真に覚醒しながら真に思考し人間として本当に生きているでしょうかね?