環境が全てを定義する!例外無し!原理原則が日本人ダケ理解不能
テレビが終わる日──それでも沈む船を讃える国で
フジテレビの不祥事が再び世間を騒がせている。日本テレビは同局の長寿番組「ザ!鉄腕!DASH!!」国分太一も甚大はコンプラ違反との事だが、業界の「ガタつき」は今に始まったことではない。むしろ今や、テレビ業界全体が老朽化したタイタニック号のようなもの。船底に穴が開いているのに、船内では相変わらず「ゴールデンタイムです!」と司会者が笑っている。
広告収入はネットの半分に転落。若者の3割が「テレビ局のコンテンツに一切触れない」生活を送り、テレビ局の就職人気は100位圏外。「昭和の頃の輝き」は、VHSの奥底に眠ってしまったらしい。
もっとも、彼らテレビ局は悪意で嘘をつくわけではない。ただ「スポンサー様に都合の悪い真実は流せない」という、“大人の事情”を抱えているだけ。たとえば大企業の食品偽装が明らかになっても、テレビでは「お詫びCM」が流れ、ニュースでは「品質管理の見直しを検討中」と、ほっこり締めくくる。
この「やらせしかない状態」「忖度型報道」は、もはや芸術の域。やらせ、切り取り、ねつ造と、映像技術だけは一流だ。番組の中で「信じられない!」と事前の原稿通り叫ぶ芸能人の顔を見ながら、視聴者も心の中で「それ、こっちのセリフだよ」とつぶやいている。
とはいえ、かつてテレビは「国民の共通言語」だった。災害速報も、五輪中継も、紅白も、すべての家庭が同じ画面を見つめていた。しかし今、その役目はスマホが担っている。個人が好む動画を、好きな時間に、好きな場所で見る時代だ。テレビの時間に合わせて生活を調整するなんて、もはや贅沢でもレトロでもなく「不便」なのだ。
番組内容もどこかズレている。若者は進化したネット動画で「刺さる」体験をしている一方、テレビは「刺さらないけど、とりあえず明るくしておきました」的なコンテンツを垂れ流す。まさに、“量は多いが心に届かない”。
しかも、未だに「視聴率」だけが神様である。世帯視聴率が○%だの、ゴールデン帯がどうだの…SNSの拡散力や共感指数は計算外。テレビ業界が自らの存在を信じてやまない「業界基準」が、もはや時代とズレているという皮肉。
それでも、テレビ局は「最後の護送船団」として、官僚的な構造と派閥と系列を守り続ける。海外展開? 個人クリエイターがTikTokで世界を熱狂させる時代に、字幕すら付けず日本語バラエティを売り込もうとするのは、少しノスタルジックすぎやしないか。
今や、若者の一人暮らしでテレビを買う人は減り続け、「そもそもテレビがない」家庭も珍しくない。単身世帯の拡大により、この流れは止まりそうにない。テレビがある家より、猫用トイレのある家の方が増える日も近い。
でも、問題はそこではない。嘘を垂れ流し、真実を語らず、スポンサーに忖度する。そして確実な事、原理原則通り「類は友を呼ぶ」クズテレビにはクズ企業がスポンサードをする。そんなテレビが今なお一定の「信頼」や「影響力」を持っている社会の方が、よほど深刻ではないだろうか。
日本の大問題は・・・クズテレビに始まり、クズマスゴミになり、クズ大企業ばかりに落ちぶれた事を日本人が自覚して居ない事である。
悪に慣れ、矛盾に目をつぶり、「誰も見ないもの」に金を払い続ける。これがテレビだけの話ならまだ救いはある。だが、これがこの国全体の“構造”だとしたら──。
テレビの終わりとは、ただのメディアの終焉ではない。これは、“時代の変化を受け入れられない国”の崩壊のプロセス物語なのだ。その自覚が日本人に無い事が・・・ド深刻な現実である。ふぅ〜〜〜〜