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真実が虚偽に敗れた、誠実が不実に敗れた、寛容が傲慢に敗れた、賢明が蒙昧に敗れた、正気が狂気に敗れた

「ウソでも言い切れば勝ち」の国に生きている。

ダブル不倫の色ボケ人気タレントの小娘でも首相でも、その「影響力が大きな人の嘘は、放置すると国が確実に壊れる=国民の人生も壊れる」。国民って誰の事?なんて”ボケ”が飛んで来そうですが、確実に貴方の事です。

この国では、首相が堂々とウソをついても、誰も驚かなくなってしまいました。いや、むしろ「またか」とため息まじりに流すのが習慣にさえなってきました。そう、政治家のウソはもはや日常の風景。季節の挨拶と同じように、「はいはい、選挙前の恒例ね」と受け流されてしまうのです。

言葉を信じる文化だったはずの日本。そのはずが、今では「信じた方がバカを見る」という皮肉な常識が根を張っています。どれだけ華やかな言葉を並べても、それが翌週には180度変わっている。まるで「真実」は使い捨てのティッシュのように扱われ、乾いた顔を拭いたらすぐにゴミ箱行き。信頼は、築くのに時間がかかるくせに、壊れるときは3秒です。

そして壊れたまま、”大嘘が普通の日本文化”が今の日本文化です。

最近もまた、そんな「言葉の軽さ」が露呈しました。石破首相(※仮想の未来設定に基づく)による、例の現金給付の話。党首討論では「そんな財政状況ではありません」と涼しい顔で言い切ったわずか2日後、「はい、2万円配ります、子どもと高齢者は4万円です」と選挙公約に盛り込むという大転換。もうツッコミを入れるのも疲れるレベルです。

国民民主のド不倫玉木代表が「納税者や現役世代はいつも後回し」と嘆いたのも無理はありません。上振れした税収は「与党の選挙対策費」と化し、「減税で返すのが筋」なんて当たり前の話が、なぜかこの国では異端扱いになるのです。それにしても、高齢者の4人に3人が非課税世帯とは…。この国は、未来より目の前の「票」を大切にするんですね。

簡単にド直球で言えば・・「若いヤツらの未来などどうでも良い」・・と言われていて、当の若い人が怒らないという世界で唯一の不思議な国、それが日本です。

さらに問題なのは、それを追及する立場にあるメディアです。テレビ朝日「モーニングショー」で、コメンテーターの玉川徹さんが官邸キャップの記者をピシャリと一喝。「政治家が信用できない発言をして、それを“仕方ない”で済ませるのはおかしい」と真っ当な指摘をしてくれました。…が、それに対する政治部の返答は、「決まるまでは言えないからしょうがない」と。

しょうがないって何ですか?嘘つきがバレた子どもが「だって…まだ決めてなかったし…」と弁解してるように聞こえるのは、私だけでしょうか。しかもその言い訳を、メディアが公に正当化を代弁してしまう。これじゃあ、メディアじゃなくて「政府大嘘広報室」に名前を変えた方がよほど誠実です。

玉川さんの「それをメディアが認めちゃいけない」という一言には、日本の報道が失ってしまった“魂”が込められていました。でもその言葉で凍り付いたスタジオも、数秒後にはスタジオの空気とともに霧散していきました。ここは掘り下げるテーマであり、生放送の意味であり、逃げたらジャーナリズムの廃退です。

重苦しい沈黙、固まった記者、そして進行を再開するアナウンサーの「では次のテーマへ」。この瞬間こそ、日本の民主主義の現状を象徴しているのではないでしょうか。

私たち国民もまた、無意識のうちにその構造を許してしまっています。怒るのをやめた国民、諦めた市民、考えて自覚するより忘れる方が楽と知ってしまった有権者。言葉を信じなくなった社会に、果たして民主主義の未来はあるのでしょうか。

本来、言葉は約束の証であり、信頼の礎であるべきです。党首討論は、その政治家が「何をどう考えているか」を国民が見極める最後の舞台のはず。それなのに、その場でウソをついても、次の日には何事もなかったかのように政策を変え、報道もそれをスルーする。…これでは討論ではなく、「討論ごっこ」です。

こんな国に生まれた私たちは、冗談抜きで“サバイバル”を求められているのかもしれません。目の前で起きていることを「おかしい」と誰も言えない社会に、次の世代を託せるのか。不都合な真実を飲み込んで、選挙のたびに配られる「一時の借金飴玉」に喜んでいて良いのでしょうか。

思い出してください。政治家は「国民の代表」です。ということは、今の政治家の姿は、つまり「私たち自身の姿」でもあるのです。ウソを許す社会は、やがてウソしか通用しない社会へと進みます。

このままでは、気づいた時には、真実そのものが絶滅危惧種になっているかもしれません。そしてその時、私たちは「こんなはずじゃなかった」と、また誰かのせいにするのでしょうか。

いや、もう遅いかもしれません。ウソが日常になった国で、真実を守るのは「誰か」ではなく、「私たち」なのですから。