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人間に取って大事な・食う・寝る・遊ぶ・の”食う”が破壊する

注:私に特段の政治的イディオロギーは無く、支持政党も無く、原理原則と第一原理思考が有るのみです。念のため!

日本の農政ほど、学術的知見と逆方向に走り続ける政策も珍しい。農業経済学、公共政策学、ガバナンス研究——どの分野のQ1〜Q2論文を開いても「閉鎖的な利益集団に支配された政策領域の末路は、制度の自壊である」と書いてある。

だが日本では、その教科書的警告すら“伝統”の一言でかき消される。過去30年間で60兆円もバラマキ、ムダ金にしたダケでは無く日本の農業を自立不可能なまでに破壊した農林族という犯罪的集団!!村社会を守ることが“国益”だと信じ込むのは、日本のエリート層に特有の確証バイアスであり、日本社会の制度疲労を象徴している。

米価が5キロ5000円(適正価格の2倍)に迫り、消費者が逃げ出し、生産者自身や大規模流通業者が「5キロ3500円が妥当」(それでも世界価格の約2倍)と公言した。これは市場メカニズムが悲鳴をあげた瞬間だ。

さらに需要の問題がある。農業経済学の研究は明確だ。価格が1%上がると米の需要は約0.4〜0.5%減る。つまり、価格が2倍に成れば需要は半減すると云う事です。つまり、5000円の米を維持するということは、国民に「買うな」と言っているに等しい。現にパンやパスタの売上は上がり、米の販売量は歴史的低水準に落ち込んだ。「米離れ」ではない。「国民の米からの意図的追放」である。

しかし農政の中枢にいるエリートたちの反応は「市場が決める」「備蓄米は今後は放出しない」「価格にコミットしない」の三点セットである。しかし、しかし、なぜかコメ価格高騰を誤魔化す”お米券”は配る。学術的にはこれを“統治不全の自己正当化”と呼ぶが、日常語でいえばただの「現実逃避」である。

日本最大の米卸の社長が極端な米離れや暴落を心配し「適正価格は5キロ3500円」と言わざるを得なかったのは、市場を理解する者の叫びであり、研究者なら当たり前に口にする結論である。だが、政策側は「おこめ券」に夢中だ。1枚500円が実質440円という逆インセンティブ設計を見て、海外の公共政策学者がもし評価したら、きっとこう言うだろう——「これは”間違い事例の教材”として優秀だが、政策としては落第だ」と。

そんなお米券も世間の不評や農業団体への利益誘導とか自治体の経費増大で嫌われると等々1枚500円を全米販が1枚477円で値引きすると発表した・・まさに、行き当たりばったりの愚政である。

政策研究の世界では、制度が自らの目的を忘れ、既得権益の維持を最終目的化する現象を「ミッション・ドリフト」と呼ぶ。日本の農政はその典型例だ。もはや「国民に安定した食料供給を」というミッションは風化し、「農林族の地位維持」と「選挙区の安定」が政策の核心になっている。これを“農政”と呼ぶのは、国際学会に対するある種の冒涜である。

もっと深刻なのは、日本社会全体がこの“制度の歪み”に慣れきってしまっていることだ。高齢化、限界集落、耕作放棄地、そしてクマの出没すら、私たちは「しかたない」と受け流す。社会学ではこれを「正常性バイアス」というが、日本ではこれを“国民性”と呼んで誇らしげに語ってしまう。ここまでくると、もう救いがない。政治学でいう“パッシブ・アグリー(消極的同意)”が日本社会を覆い、制度の歪みを「仕方ない」と受け流す態度が常態化している。悪慣れである。

米価が高騰しても、減反が続いても、供給が減り需要が縮小しても、誰も根本原因を問いたださない。行動経済学でいう“現状維持バイアス”が国民全体を支配し、それが政治家に「この制度はまだ使える」と誤解させる。実際には制度そのものが、国益の土台を腐らせているにもかかわらずである。

より皮肉な事実もある。米農家の存続を本気で危うくしているのは、他ならぬ“米価高値維持政策”である。産業としての持続性が無くなり、産業として成立しないモノは、消滅するのが当たり前の事である。無理を通して維持しようと思えば延々と税金投入するしか無くなる。

Q1論文の需要関数が示す通り、価格が上がれば需要は落ちる。需要が落ちれば生産者は縮小し、後継者は消える。つまり農政は「農家を守る」という名目で、農家を静かに窒息させている。これを専門用語では“政策的モラルハザード”と呼ぶが、日本語で言えば「自己矛盾の放置」である。

一方で、農林族の周囲には、制度維持を当然視するエリート層の存在がある。開成→東大→官僚→農水族という黄金ルートを歩んだ彼らのリーダーは、「自分たちは国家運営の専門家」という確証バイアス!無謬性に浸り、村社会と国民生活の区別すら曖昧になる。学術的には“エリート・キャプチャー(政策領域が内輪に乗っ取られる現象)”と呼ぶが、日本ではこれを「経験豊富な政治家」と讃える。笑えない冗談である。

制度が閉鎖化すれば、外部の合理性はすべて“雑音”となる。米価の高騰、需要の縮小、耕作放棄地の増加、クマ出没の急増——これらはすべて、農政の失敗を示すサインである。しかし農林族にとっては「票田の維持」の方が重要で、サインは無視される。Q2級論文のガバナンス研究の言葉を借りれば、これは「制度的盲目性」である。あえて日本語にするなら、「都合の悪い現実から全力で目をそらす才能」と言える。

そして国民側もまた、その盲目性を共有して悪党化している。米が高値になればパンを買い、補助金が出れば納得し、農政の矛盾は話題にすらならない。“問題先送り”が国民的習慣になり、制度の崩壊は“自然現象”のように扱われる。荒れた棚田にクマの爪痕が刻まれる——それは自然の力ではなく、最悪の農政と日本人の無関心が彫りつけた傷跡である。

結局のところ、農林族という村社会を温存し続けることは、米作を守るどころか、日本のガバナンスそのものを蝕む。これは学術的にも政治的にも自明だが、日本のエリート層はそれに気づかない。いや、気づかないふりをしている。

“制度(組織)を守るために国が壊れる”という、最悪の愚行を続けているのだ。まるで80〜84年前の日本軍組織と同じ手段と目的を取り違えた悪の文化である。

米価の高騰は、単なる物価問題ではない。日本の統治構造が「限界集落化」していることを示す最後通牒である。制度疲労と確証バイアスに支配された社会は、やがて自壊する。農政はその縮図であり、警告だ。

デタラメやり放題!失敗が確実な現実を見ずに・・・失敗の政策を延々とやり続ける先に未来など無い。

私たちはそろそろ、この村社会的農政という“聖域”に強烈な痛みを受け入れ、セロリセットする覚悟を持つべきだ。守るべきは農林族の既得権や自滅民党の票田ではない。守るべきは、米を大規模に自力で利益を出せ産業としてつくれる人と、米を食べる国民と、この国の未来そのものである。

日本を破壊するリーダーを選び続ける不思議な反知性主義のポピュリズム民族!それが今の日本人なのだろう。