みさごの眼でしっかり視ると、不思議すぎる日本人
信仰牧場ニッポン ― 神と家畜の幸福度55位
日本という国は、先進国の皮を被った巨大な人畜牧場だ。そこでは国民は家畜であり、牧場主はごくごく一部の代々続く上級国民の長であり、そして代々続く世襲の政治屋や代々続く大企業の創業家社長は神にも等しい存在として崇められる。つまり「信仰家畜」が織りなす奇妙な宗教国家、それがニッポンである。
本来、宗教とは魂を救済するものであるはずだ。だがこの国の宗教は、借金と労働と我慢の苦痛を神聖化し無痛に錯覚することにある。洗脳で契約した住宅ローン35年〜50年を「家庭円満の儀式」と信じ、人生でたったの5%しか使わない車に6000万円の生涯コストをかけることを壮大な無駄とも思わず「社会人の洗礼」と受け入れる。
日本人で結婚して幸せを感じるのは3割以下だ!さらに3割は諦め、残りの4割は憎しみ合いの夫婦の末離別⇒子もろとも大不幸・経済苦「これが現世修行なのだ」と諦める。しかも本来助け合う家族でも現実は崩壊状態にあり、この日本では殺人事件の過半が親族殺人である。65歳以上の殺人事件では、その割合は7割にも及ぶ。
幸福度が世界55位でも、「神が与えた試練だから」と言い聞かせる。つまり不幸があまりに日常化して、「不幸こそ神聖」になってしまったのだ。
牧場主たる政治屋は、その構造をよく知っている。彼らは代々世襲される「神官」だ。祖父が神殿(議席)を築き、父がその祭壇を磨き、息子が跡を継ぐ。選挙は民主主義の祭りではなく「信者が神官を選ぶ宗教行事」。血統書付きの神官が当選し、牛たちは「ありがたや」と頭を垂れる。
そして神官と癒着するのは、企業という「祭具商人」だ。莫大な献金を捧げれば、神官は規制という祝詞を唱えて市場を守る。家畜たちは高い電気代、ガソリン代、税金という「賽銭」を納め続ける。自分たちの乳と肉と命を差し出しながら、「ありがたい」と拝むのだから、宗教としては完成度が高い。
この国では、政治屋は神官であり強欲牧場主。しかも多くは代々続く“世襲神官牧場主”。祖父の代から牛舎を受け継ぎ、父の代でエサ場を整え、息子がまた牧場主になる。票田は放牧地、支持者はエサをもらう牛。国民は「お上の血筋」に従順で、血統書付きの牧場主を選んでしまう。選挙とは民主主義の祭典ではなく、「どの牧場に飼われるか」を決める牛の群れの儀式です。
しかもこの牧場主たちは、企業という巨大飼料メーカーと手を組んでいる。企業は資金という“配合飼料”を提供し、牧場主は規制や税制という“牧柵”で牛を囲い込む。牛たちは少しずつ搾乳され、肉となり、命を削られる。それでも「ありがたい」と頭を垂れる。なんと家畜として優秀なのでしょう。
さらに驚くべきは、国民と云う家畜の6割以上が「生活が苦しい」と答えているのに、「変化」を嫌うことです。普通の牛なら柵を壊そうとするはずですが、日本の牛は違う。苦しくても「我慢が美徳」と言い聞かせる。幸福度が世界55位でも「比べるのは良くない」と慰める。
再度申し上げる、結婚しても幸せを感じる人が3割以下でも、「そんなものだ」と諦める。ローンに縛られても、生涯クルマ費用6000万円の車コストに人生の可処分所得の全てを差し出しても、「これが人生」と納得する。まさに“家畜のプロ”です。しかも95%使わない鉄の塊に”愛車”と称して”愛”を感じると云う不思議な洗脳がまん延している。
恐ろしいのは、この牧場宗教の教義が「変化してはいけない」ということだ。6割以上が「生活が苦しい」と答えても、家畜たちは「神の御心」と受け入れる。柵の中が狭くても「外はもっと危険だろう」と信じ込む。鎖につながれながら「自由は不安だからいらない」と唱える。まさに“信仰家畜”だ。
さらに恐ろしいのは、この搾取され続ける家畜が・・牧場主をより偉い(上位者と云う勘違い)と勘違いしている精神病をDNAの中に持っている。
ムヒカは「リーダーは国民と同じ生活をすべきだ」と語った。だが日本の神官は、牛舎とは別の宮殿に住み、贅沢な神饌を食す。牛たちは粗末な飼料を食べながら、「でも神官様もご苦労があるのだろう」と勝手に同情する。宗教的服従とはここまで徹底できるのか、と世界が驚くほどの盲信ぶりだ。
借金にしてもそうだ。国家の借金は1400兆円を超えているが、「未来の子牛が何とかしてくれる」と誰も疑わない。親牛たちは「子孫に徳を積むための修行だ」と正当化し、子牛は生まれながらに「原罪=国の借金」を背負う。この宗教の最大の奇跡は、罪の継承を「美徳」と言い換えてしまったことだろう。
結局、日本とは「信仰によって支配される牧場」である。政治屋は牧場主であり神官、企業は祭具商人、そして国民は信仰家畜。幸福度55位でも、結婚に幸せを見いだせなくても、ローンに縛られても、「これも御心」と受け入れる。世界から見れば、これはもはや喜劇ではなく、カルト宗教の集団儀式にしか映らない。
「日本人は本当に幸せなのか?」――答えはこうだ。
幸せかどうかを考えることすら許されない宗教体系の中で、今日も信仰家畜は飼料を食み、搾乳され、祭壇に命を捧げている。
そして、最後の救いすらない。なぜならこの宗教には「救済」が存在しないからだ。あるのは「現世の我慢」と「来世への借金」だけ。皮肉どころか、絶望的な笑いしか残らない。
日本人の近代史を徹底的に研究すればするほど・・・日本人とは不思議な民族である。幸せとは真逆の事を好む不思議な民族である。・・この本質を知り、日々、思考や感覚を正しくもたないと、ほぼ幸せな人生は獲得できない。
「普通に生きる=不幸せ」・・・である。