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便利がもたらす心の貧困と孤独

江戸からスマホ社会へのタイムトラベル・・・便利がもたらす心の貧困と孤独

江戸時代、庶民の暮らしは決して豊かではなかったが、そこには人情が溢れていた。長屋の隣同士は顔を合わせれば挨拶を交わし、困った時は「お互い様」で助け合う。借りた醤油を返すときは少し多めに返すのが粋な心意気。電気もスマホもないが、人とのつながりは常に電波満タンだった。

一方で現代、私たちはどうだろうか。スマートフォンという魔法の箱を手に入れ、世界中と一瞬で繋がれるようになった。でも、奇妙なことにその箱を手にした瞬間、目の前にいる人との会話は途切れ、満員電車では人々が一様にうつむき、画面を眺めている。「歩きスマホ」に「ながらスマホ」、まるで現代人は自らの首を絞めるように画面に取り憑かれている。

江戸時代の長屋では「おはようさん!」の一言で一日の始まりを共有していたが、今ではSNSの「いいね!」で安っぽい承認欲求を満たそうとする始末。誰かの手料理を見て「いいね!」、ペットの写真に「いいね!」、正月の餅つきすら「いいね!」だ。江戸の職人が見たら「そんな薄っぺらい返事で満足なのかい?」と、呆れて煙管(キセル)でもふかし始めるだろう。

さらに驚くべきは、スマホがないと不安になる「スマホ認知症」だ。まるで魂の一部を抜き取られたように、スマホが手元にないだけでそわそわし始める。江戸時代の火消し(ひけし)は町の火災を恐れていたが、現代人はスマホの電池切れを何よりも恐れる。「バッテリー残り5%です」の表示が出た瞬間の焦りようは、江戸の大火にも匹敵するほどのパニックだ。

考えてみれば、江戸の長屋にはプライバシーなんてものはなかった。それでも人々は心を許し合い、笑顔で暮らしていた。今はどうだろう?スマホの中に鍵をかけ、顔認証までして誰にも見せない秘密の世界を抱え込む。それなのに、わざわざその世界をSNSで晒して「見て!私の幸せ!」と叫ぶのだ。江戸の瓦版屋(かわらばんや)が聞いたら、転げ回って笑いそうである。

そして、スマホ依存の本当の代償は目に見えない形で現れる。人間の脳は本来、一度に多くの情報を処理するようにはできていない。絶え間ない通知音、無限スクロール、終わりのない情報の波に晒され続けた結果、私たちの脳は疲弊し、記憶力や共感力が著しく低下しているという。現代人は、目の前の人の表情を読み取る力さえ失いつつあるのだ。

心や感性、共感力、利他心といった「人間らしさ」がスマホの画面の向こうで削られていく一方で、現実社会では生きるための競争が厳しくなる一方だ。情報の早さ、効率の良さ、数字で測られる成果。人間らしさよりも、機械のような処理能力が求められる世界で、誰もが疲れ果てている。それでもスマホを手放せないのは、もはや依存の域を超えて、人間の精神がデジタルに組み込まれてしまったからかもしれない。

江戸から現代への時間旅行をしたとしたら、江戸っ子たちはきっとこう言うだろう。「なんだい、これだけ便利なものがあって、なんでそんなに孤独そうなんだ?」と。私たちは気づかぬうちに、便利さと引き換えに人情という電波を切ってしまったのかもしれない。そして、心が壊れ、脳が疲れ、感性が鈍ってもなお、スマホを手放せない我々は、一体どこへ向かうのだろうか。

未来の人々は、現代の私たちをどう見るのだろうか。江戸時代の長屋を「不便だけど心豊かだった」と懐かしむように、スマホ依存社会を「便利だけど心貧しかった」と皮肉交じりに笑われる日が来るのかもしれないね。