欲まみれの反知性主義の悲しき現実の投票結果
もう「普通」ができない国へ──原理原則を軽視し、そして今の今85年前と全く同じで無視するプリンシプルの無い民族に成り下がってしまった。
稲盛和夫氏が残した最後のラブレター
近頃の日本人、えらく「自分の幸せ」に夢中だ。今度の選挙でも財源や実現方法の根拠が全く無い!「貴方の生活豊かにします」スローガンの幼稚なポピュリズム政党へ極悪自民党の票が流れた様である。自民党政権が敷いた日本のド衰退の坂道がさらに勾配がキツクなり・・・滅亡までの時間が短くなった気がする。
自己肯定感の強化、マインドフルネス、人生の最適化。おまけに「推し活」に「ソロ活」。いや、自己実現は結構です。でもちょっと待ってほしい。あなたが幸せになるために、他人は不幸でもいいんですか?根拠無き借金バラマキで良いのでしょうかね!!!
そんな空気に、天国の稲盛和夫さんはきっと京都弁でこう言っているに違いない。
「そんなん、アカンがな」
実際、稲盛さんの語録にはこんな名言がある。「経団連の社長連中の人格は、そこらのタバコ屋のおばはんより劣ることがある」
これ、なかなか強烈。でも彼の真意は、「人間性の欠如したエリートなんて、町のおばちゃん以下」という、笑いと皮肉に満ちた愛のムチだった。肩書でも学歴でもなく、人間性がすべて──それが稲盛哲学の根っこだ。
ところが今の日本を見渡せばどうだろう。人格よりスペック、倫理よりテクニック、信頼よりフォロワー数。知的要素の必要な職業もフェイスの見てくれで選ばれている。筆頭はフジテレビである。社長の条件は「人格者」ではなく「パワポ巧者」になってしまった。物事の本質より、KPIと株主がすべての時代である。
注:KPIとは、Key Performance Indicator(キー パフォーマンス インジケーター)の略で、「重要業績評価指標」と訳される。 簡単にいえばKPIとは中間目標であり、ゴールに向かうまでのプロセスの目標数値である。
そんな時代に、稲盛さんは80歳のときに破綻したJALの再建を引き受けた。報酬ゼロで。彼がやったのは、「普通のこと」だったという。
「私は、特別なことはしていない。普通のことを、普通にやっただけです」
けれど、この“普通”が、現代の日本ではいちばんの異常になっているのだ。
たとえば──
経営の目的を「社員の幸せ」とした。「人として正しいかどうか?」で経営判断を下した。現場レベルまで理念を共有し、整備士もCAも、数字と哲学を自分ごとにした。派手なコスト削減ではなく、「心のムダ(=無責任・保身・諦め)」を削った。
それだけでJALはたった2年で復活した。なのに私たちは今なお、「普通のこと」ができずにいる。そしてJALもまた稲盛氏の去った後の今!「普通のこと」が出来なくなってきている様である。
なぜか?
それは、“利他”という感覚をすっかり失ってしまったからだ。「誰かのために」動くことが、損だと思われる世の中になってしまったからだ。
かつての日本には、おせっかいなおばちゃんが、そこら中にいた。隣の家の子どもを叱り、困った人には黙ってご飯を持っていく。稲盛さんが言う「タバコ屋のおばちゃん」は、そうした“当たり前の人間らしさ”の象徴だったのだ。
でも、今は?
電車でお年寄りに席を譲ると「撮られて拡散」される時代。人を助けると「巻き込まれリスク」。他人に優しくすると「自己犠牲バカ」と言われる。
こんな国で、幸福なんて手に入るわけがない。
利己的な人間関係、薄っぺらいSNSの承認欲求、ブラック企業での“やりがい搾取”。どれもが「自分だけ良ければいい」という強欲の末に生まれた悲劇だ。
稲盛さんの経営哲学は、実は“人間の哲学”だった。他者を幸せにしない限り、自分も本当に満たされることはない。これはスピリチュアルでもきれいごとでもない。人間社会というものの、当たり前の構造なのだ。
でも今の日本人は、その「当たり前」がわからなくなっている。“普通”ができなくなっている。
一体いつから、こんなに滑稽で哀しい国になってしまったのだろう。エリートたちはスーツを着て数字を操るけれど、人の心は動かせない。政治家も経営者も、肝心の「人間力」を磨くことをサボってしまった。
だから私たちは、いま一度立ち止まるべきだ。
誰のために働いているのか?
自分の行動は、人として正しいのか?
あなたの幸せは、他人の不幸の上に成り立っていないか?
そんな問いを、少しずつでも持つこと。稲盛和夫氏が言う「普通のこと」を、もう一度思い出すこと。
このままでは、日本は“心が破綻したままのJAL”になってしまう。誰かが「哲学の再建」を引き受ける日が来るまでに、私たち一人ひとりが「人間としての再建」に取り組む必要があるのではないか。
そしてそれは、誰にでもできる。
ほら、あなたのすぐ隣にいる昭和のお節介大好きの「町のタバコ屋のおばちゃん」から、もう一度学び直せばいいのだ。