正しい選択と集中・・・運動会・展示会なんて論外
キーディバイスが重要
注:念のため
キーデバイスとは製品を構成する上での中心的なモジュールでキーコンポーネントと呼ばれるもの。 このキーデバイスを自社、自国の固有のものとして持っていれば他社、他国との差別化を行うことが容易となりますが、このキーデバイスを他社、他国から調達しているような場合、差別化を行うことが難しくなり、価格競争に陥る危険性が増大、コモディティー化の促進・・・弱体化の末路
まさにどの山を一番高くしたら多くの国民がそのすそ野で平和に幸せに暮らせるか???それを考えるのが本来のリーダーの役目である。世界に役立つ日本人と云う生き物をどう育て上げるか???これが一番重要
もう義務教育や教育屋のやる教育は足し算、引き算、割り算、掛け算ていどで全く問題なし、後は個々の能力適性をどう見つけ出してどの山に登るか?正しい選択を出来る能力を付ける事が一番大事な事である。
今、世界のキーディバイスは・・・自然エネルギー、バッテリー、そしてゲノム、ヘルス、メディカル、イーコマース、フィンテック、水、食料・・・ここが一番大事
一次産業はその永続性はかなり長期にわたります。二次産業の寿命はおおむね60年、三次産業の寿命は10年〜30年程度と推定できます。日本の国際競争力はなぜか5位なんて高位置を今、某査定機関から頂いたようです。ほんとか???どうか???各種指標を正しく見るとにわかに信じがたい位置です。
もう賞味期限切れの2次産業、3次産業などにリソースをつぎ込んではなりません。ましてや運動屋や政治屋とうとうの役目を終えたモノは廃棄すべきです。
義務教育は3歳から12歳までとしてその先の3年を高等教育として・・・15歳からは大学受験が可能、そして一般社会人として組織に所属する事を許可すべきです。教育は早ければ早いほどその人の適性の判別が可能となります。そして義務教育でも飛び級は許可されるべきです。
教育者はその適正を3年ごとに試験すべきです。そして教育レベルに於いて5段階程度の資格差を付けるべきです。3年ごとの試験の成績等でこのランクを上下させて効率を上げるべきです。今の日本で先生と呼ばれる人ほど勉強をしていません。恐ろしいほどの程度の低い人が・・・教育者・・・と名乗る事を許されています。
教員しかり、学者しかり、医者しかり、弁護士しかり、設計士しかり・・・
基礎研究もとても大事ですが本来教育とはその社会貢献に於いて価値が有るスキルの習得が一番大事です。つまり、企業や組織や個人研究者がその仕事の中で進歩し獲得する事がとても意味があります。
仕事も学問も研究も・・・それを追求する本人が面白くなければ進歩などしません。
世の教育者や政治屋はその言っている事と成果をAIに評点を付けさせて・・・その実行力、貢献度が落第点なら立候補の許可を取り消したり、教育者なら再教育の義務付をすべきです。馬鹿を一人でも減らさないと・・・この国は73年前の過ちをまた繰り返します。
とにかく・・・利は元に在り・・・です。人間社会の元は・・・人・・・のクオリティーです。そして産業のクオリティーは・・・ソフト、設計図の良し悪しです。
大企業の今やって居る思考や製造は下請けに押し付け、ただ普通に組み立てるのに何の価値もありません。
とにかくエネルギーの効率化の要点がとても大事です。それはただ一つの同一カテゴリーの中で競うのでは無くグローバルにオープンに効率化を求めなければ意味がありません。
例えば・・・車会社が今以上の利便性と満足を高める為に車が必要無くなるビジネスモデルを真剣に考えだす事が本当に意味がある事なのです。ニューエコノミーへの脱皮なのです。
私の若いころの経験からすれば・・・車大好き人間の私が・・・富士スピードウェーで1回の走行で新品タイヤがズルズルの坊主になるほど死ぬほど走りまくったら・・・もう車をとばす事に何の興味も無くなりました。
とにかくやりきる環境を与える事が・・・卒業、脱皮、人間的進化・・・をもたらすと最短の道です。とらわれ人からの解放です。あれほど大事と思っていたことが実はそうでもない・・・と云う事に気付くのです。もっと、もっと、もっと、価値が有り大事な事が有ると気付くのです。
今の日本社会は無駄ばかりです。もちろん肥やしになる無駄はあり得ます。しかし、肥やしにならない消耗するだけの無駄が山ほどある様な気がします。その最たるモノが権威であったり名誉であったり、各種肩書の様な気がします。
60`の人間が移動するのに2000`の重さの鉄の塊が必要なんてどう考えてもおかしいし、無駄の最たるモノであると・・・人は気付かないのです。
日本にあるすべての自働車を全ての道に車間距離10mで並べたら完全に道という道全てが自働車で埋まる・・・それなのに車をもっと売ろうとする不思議
人口が激減する近未来に・・・経済を良くしようと必死の努力をするアホー、人が減れば経済は減速、シュリンクするなんて当たり前中の当たり前、それよりまして人をモノとして扱いその収入を半分にして子を産め、子を育てろって・・・それ無理
母となる若き婦人が・・・落ちこぼれてパーのまま動物的に出産したら・・・その子は人では無く動物なんて事は簡単に解る事です。人はオオカミに育てられたらオオカミになるのです。
学問のすすめ(現代語訳)
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言われている。つまり、
天が人を生み出すに当たっては、人はみな同じ権理(権利)を持ち、生まれに
よる身分の上下はなく、万物の霊長たる人としての身体と心を働かせて、この
世界のいろいろなものを利用し、衣食住の必要を満たし、自由自在に、また、
互いに人の邪魔をしないでそれぞれが安楽にこの世をすごしていけるようにし
てくれているということだ。
しかし、この人間の世界を見渡してみると、賢い人も愚かな人もいる。貧しい
人も、金持ちもいる。また、社会的地位の高い人も、低い人もいる。こうした
雲泥の差と呼ぶべき違いはどうしてできるのだろうか。
その理由は非常にはっきりしている。『実語教』という本の中に、「人は学ばな
ければ、智はない。智のないものは愚かな人である」と書かれている。つまり、
賢い人と愚かな人との違いは、学ぶか学ばないかによってできるものなのだ。
また世の中には、難しい仕事もあるし、簡単な仕事もある。難しい仕事をする
人を地位の重い人と言い、簡単な仕事をする人を地位の軽い人という。およそ
心を働かせてする仕事は難しく、手足を使う力仕事は簡単である。だから、医
者・学者・政府の役人、また大きい商売をする町人、たくさんの使用人を使う
大きな農家などは、地位が重く、重要な人と言える。
社会的地位が高く、重要であれば、自然とその家も富み、下のものから見れば
到底手の届かない存在に見える。しかし、そのもともとを見ていくと、ただそ
の人に学問の力があるかないかによって、そうした違いができただけであり、
天が生まれつき定めた違いではない。
********************
自然界に平等なんて言う概念など無いのである。学ぶ事に価値が有り、学ばない人になど価値は無い、重要でないという事である。スタートラインは皆同じスタートラインしかし、一旦スタートしてしまえば当然差は付くのが当たり前である。
さらに悪い事には日本では生まれながらの不平等が歴然としている社会なのである。レイプ犯よりひどい財政的児童虐待を平気でやり続ける確信犯的な悪人を放置する社会
そして学びには時代のベクトルと学びのベクトルを合わせる事が肝要である。時代のベクトルとは・・・時代に価値を生む思考とキーディバイス